神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

岡本拓司『近代日本の科学論』(名古屋大学出版会)で見るスメラ学塾仲小路彰の皇道科学論ーー小島威彦、藤澤親雄、深尾重光らの科学論もーー

 様々な分野の研究者がスメラ学塾の関係者に言及するようになったこの頃である。岡本拓司『近代日本の科学論:明治維新から敗戦まで』(名古屋大学出版会、令和3年2月)にも、「スメラ学塾」という言葉は出てこないが、スメラ学塾を率いた仲小路彰、小島威彦やメンバーの深尾重光、泉三郎・泉四郎兄弟、スメラ学塾の周辺にいた藤澤親雄*1らが登場する。
 425頁の「特異な科学論」では、深尾、泉三郎・四郎らの国民精神文化研究所における活動に加え、泉三郎、深尾らが寄稿した世界創造社の『科学者の責務』(スメラ民文庫、昭和16年7月)を取り上げている。そして、

世界創造社から多くの書籍を刊行している仲小路彰は、メソポタミアのシュメール文化を「スメラ文化」と表記し、人類学や言語学によればその民族が日本人系であったと主張し、スメルがスメラ、スメラギ、スメラミコトの語源であると論じている。仲小路の構想は雄大であり、このスメラミクニ日本の歴史として世界史を記述し、日本軍による世界の解放を正当化しようとしていた。世界史はスメラ世界史、上代に栄えた文化は上代スメラ文化などと命名され、日本軍による世界の解放の指針は「スメラ世界維新大綱」と呼ばれた(仲小路 1942a)。

 出典は、仲小路「スメラ世界維新大綱」『現代』23巻4号,昭和17年4月である。 岡本氏によると、この連載は『世界維新大綱』(大日本雄弁会講談社昭和18年7月)にまとめられる際に、書名から「スメラ」の語が消え、連載で「スメラ世界」「スメラ文化」などととされていた語は、書籍では「世界」「文化」とされているという。そんな重要な改変がされていたとは。何事も初出に当たらないといけないですね。
 また、仲小路は同連載で「真の科学とは、スメラ学、皇学の一部たるべきものであり、皇道科学として始(ママ)めて、その本質を実現し得るのである」と書いているそうだ。誰ぞの好きな皇道図書館の他に、皇道仏教とか皇道経済学は知っていたが、皇道科学もあったとは驚愕である。
 岡本氏によると、「科学論史においては、科学史では検討の中心となることの少ない、科学者以外の人々の議論も積極的に取り上げることとなる」という。それにしても、よくぞ仲小路をはじめとするスメラ学塾の関係者の科学論を取り上げていただいた。ありがとうございます。
 本書では論者の経歴や当時の文化的政治的状況などの詳しい記述はない。それは、科学論そのものの解説に重点を置き、過去にあった個々の主張の特徴を明らかにすることを優先したためだという。そこで、私が若干補足しておこう。
 深尾重光は、貴族院議員深尾隆太郎の長男。妹の淑子は、小島の妻である。岡本著は生没年を「?」としているが、『平成新修旧華族家系大系』下巻(霞会館、平成8年11月)によれば、明治41年9月生、昭和62年4月没。学歴は、昭和5年第五高等学校卒後、1年間の北海道帝国大学理学部物理学科在籍を経て、7年東北帝国大学生物学教室へ入学し、10年卒。
 泉三郎は、熊本県出身。中学卒業後、陸軍士官学校へ入校し、陸士34期生として工兵将校となる。大正15年軍隊を退いた後、五高を経て昭和4年東北帝国大学理学部物理学教室へ入学し、7年卒業。昭和8年から13年まで渡欧し、ベルリンで小島と遭遇している*2
 泉四郎は、泉三郎の弟。五高を経て、昭和2年東北帝国大学理学部数学教室へ入学し、5年卒。
 仲小路(大正10年卒)、小島(大正13年卒)、深尾(昭和5年卒)、泉三郎(昭和4年卒)、泉四郎(昭和2年卒)は、すべて五高出身ということになる。

近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで―

近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで―

*1:篠原雄による藤澤『大陸経綸の指導原理』(第一出版社、昭和13年9月)の批判も紹介。

*2:情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その21) - 神保町系オタオタ日記」参照