神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その21)


11 戦時下の出版社アルスとスメラ学塾(承前)


川上健三は、日本地政学グループの一員。明治42年生まれ、昭和8年京都帝国大学文学部史学科(地理学)卒。台湾で一時教職に就いた後、参謀本部、大東亜省へ勤務。戦後は、外務省条約局参事官、ソ連公使などを歴任。平成7年死去。『竹島の歴史地理学的研究』の著者。日本地政学のリーダー小牧實繁と、陸軍、皇戦会を結びつけたのは、この川上とされている。


清水宣雄は、明治35年生まれ、昭和2年京都帝国大学文学部哲学科(美学)卒。戦後は、社団法人日本移動教室協会理事長。戦時中は、ジャワにおける第16軍宣伝班に参加。


デュルクハイムについては、一章設けるべきほどの人物なのだろうが、スメラグループとの関係を示す資料がほとんどない。小島の回想によれば、

ぺリアン女史が坂倉準三の所に、またハンガリアの名写真家フランシス・ハールが川添紫郎を頼って来日し、それらと符節を合わせるようにナチス・ドイツは駐日文化特使としてキール大学長デュルクハイム伯を日本へ派遣してきた。デュルクハイムは大哲学者ハイデガー心友でもあり、禅の研究者でもあったが、その詩才とともに数カ国語に熟達した豁達な哲学者だったので、日本世界文化復興会の思想交流の中枢に参画することになった。

とあるくらいである。


デュルクハイムは、集英社新書『戦時下日本のドイツ人たち』(上田浩二・荒井訓著)によれば、「ナチスの理論家として有名なアルフレート・ローゼンベルクによって日本に送り込まれてきた」人物とされる。このようなデュルクハイムと、柳田國男の娘婿で、国民精神文化研究所助手の堀一郎との接触を示す明確な証拠はないが、両者がともにスメラ学塾クラブシュメール国民精神文化研究所=日本世界文化復興会のネットワークの中に存在していたというのは、何やら大塚英志先生が、飛び上がって喜びそうな話である。


国際文化振興会(またもや、国際文化振興会の登場!)のPR誌「国際文化」(昭和16年3月号)では、デュルクハイムと三木清が対談を行っているが、そこでのデュルクハイムの紹介によると、ライプチッヒ大学で心理学を学び、全体主義心理学の泰斗フェーリックス・クリユーーゲルに師事。キール大学講師・キール師範大学教授で、リッペントロップ外相の学術顧問。1938年来朝し1年間日本研究の上、一旦帰国。1940年2月、ドイツ文化省の命により日本精神の研究及び日独文化提携強化のため、再度来朝とのこと。小島が、「キール大学長」としたのは、間違いのようだ。


泉三郎というのは、あまり判明していないのだが、先日、書物奉行さんお気に入りの「あきつ」さんが出品していた、泉の『時間論』(科学問題研究所発行・世界創造社発売、昭和16年4月)によれば、東北帝国大学物理学教室で学んだ後、同大学で1年間哲学を学ぶ。昭和8年末に自費留学でベルリンへ旅立ち、昭和12年冬、小島とベルリンで遭遇。ベルリン大学ボン大学、ライプチッヒ大学、ウィーン大学で講義を受け、ハイゼンベルグに学んだこともあるとのこと。その弟、泉四郎の名前もスメラ関係で見かける。同書は、戦争文化叢書の一冊だが、この叢書の執筆者こそ、スメラ関係者ばかりである。世界創造社発売だから、当然と言えば、当然のことだけど。