神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都市立美術工芸学校教諭の平野久吉

誰ぞの感化で最近は葉書にも手を出している。と言っても、絵柄よりも発信人や受信人が面白そうな絵葉書や官製葉書に関心がある。昨年入手したのは、京都市内に住んでいた平野久吉宛絵葉書を三枚。全然知らない人だが、一枚に「京都市立美術工芸学校平野先生」とあったので購入。今回紹介するのは、中島卯一郎から「市内八条通堀川東入ル」の平野久吉宛で、大正9年7月30日付けである。絵柄のキャプションには「(安房名勝)船形港の漁船生活」とある。文面は、暑中見舞。
この平野だが、てっきり画家だろうと思っていたが、調べてみると、国語の先生である。それも國學院出身であった。加藤一雄『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』(用美社、昭和59年10月)に次のようにある。

こんな有様の中で、私は国語科担当の老教員平野久吉さんとだけはかなり快活に話をしていた。ああ京都画壇のどんなに多数の画家達が、この小芋とアダ名のついた温和な老人を懐しく思い出すことだろう。(略)折口信夫さんの兄さんの古子さんはわが亡父の友達であって、信夫さんも時々兄さんと一緒に私の家に遊びにきていた。(略)殊に信夫さんは国学院の出身である。平野さんも亦この学校を出た。

加藤は同書の略歴によると、昭和9年から京都市立絵画専門学校助教授となり、京都市立美術工芸学校教諭を兼務していた。一方、平野は『百年史 京都市立芸術大学』(京都市立芸術大学、昭和56年3月)によると、明治44年4月18日*1から昭和20年4月31日まで「美工」の教諭であった。
発信人の中島だが、同書によると大正14年3月京都市立美術工芸学校絵画科卒、昭和8年3月「絵画専門学校、美術専門学校研究科」修了である。「ざっさくプラス」では、「<<展覧会出品写真版>><菊池塾第八回展>*2岡『塔影』8巻6号昭和7年6月」がヒットする。より詳しい経歴は、中島悠翠でググると出ているが、明治40年京都生、菊池契月の弟子で、没年不明らしい。絵葉書を出した大正9年当時は既に美術工芸学校の生徒だったのだろう。
現在京都新聞一面では、松尾芳樹「京都芸大 美を語る」の連載中である。京都芸大の前身の一つである美術工芸学校の様々な関係者が登場するが、平野や中島は登場しそうにもない。しかし、こういう無名の人というか半有名人こそ調べると色々わかって楽しいものである。

京都画壇周辺―加藤一雄著作集

京都画壇周辺―加藤一雄著作集

*1:京都府立総合資料館の「京の記憶アーカイブ」で検索すると、明治44年4月18日付けの辞令がヒットする。

*2:『日本美術年鑑1931』(朝日新聞社昭和8年1月)によると、菊池塾第八回展は昭和7年5月3日から5日まで京都御池美術倶楽部で開催。