神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

水泳も得意だった京都府立第一中学校時代の太田喜二郎画伯ーー雑誌『わたつみ』に没後70年の太田喜二郎ーー

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 京都出身の画家太田喜二郎(1883-1951)の没後70年ということで、京都国立近代美術館コレクション展の中で「日本の外光派 太田喜二郎と大久保作次郎を中心に」開催中。
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 2年前、行く先々で太田の絵に出会うことがあった。京都文化博物館の「太田喜二郎と藤井厚二展」、星野画廊の「太田喜二郎とその周辺展」。ここまでは連動した展覧会なので不思議ではないが、吹田市立博物館の「音楽家貴志康一生誕110年展ーー吹田に生まれた若き天才ーー」にも太田の《子供の家》(大正9年)が出ていた。。これは、太田が康一の父彌右衛門*1の友人で、康一に絵を教えていた関係である。更に、京大総合博物館の「比企鉱物標本展」では、太田の《比企忠肖像画》にも出会って驚いた。京都出身で、京都帝国大学工学部講師や京都市立美術工芸学校教員だった喜二郎なので地元に絵が多数残っていて当然ではあるものの、それでも同時期に何度も出会ったので驚いたことでした。
 そうした2年前、三密堂書店の100円均一台で見つけた『わたつみ』(田中淳雄、昭和13年11月)にも太田の名前を見つけたのであった。非売品、45頁。目次を挙げておく。
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 同誌は、京都第一中学校の観海流同好会の機関誌だったようだ。この中の谷岡安三郎述、藤岡・鈴木筆記「津浜遊泳団の初期」に太田が出てくる。同校元教員の谷岡が、津市の海浜における一中の観海流の練習の歴史を振り返っている。明治37年夏が第1回で、翌年の第2回から太田の名前が見られる。

 第二回 明治三一年七月二十五日より三週間。
 生徒数は三十五名に増加せり。(略)練習生の中に、寺尾幸吉、大塚発三郎、川勝正之、太田喜二郎、池田新吉郎、河原林象三等の諸氏あり、監督は谷岡安三郎、山田松三、半井大治の三氏。
 第三回 明治三十二年七月二十五日より三週間。
 此の年には生徒数も四十四名の多数に上り、且つ最初の助教を出せり。(略)
 五里の中には福岡五郎、山田一郎、木村正、金村完吉、村岡力の諸氏あり、三里半は伊藤秀、大塚発三郎、橋本進吉、萩原員拾、立花俊吉、岡野源三郎、豊岡孝雄、太田喜二郎、川勝正之の九氏にして(略)

 太田は水泳が得意だったようだ。橋本進吉は、後に言語学者となる橋本かな。『太田喜二郎と藤井厚二:日本の光を追い求めた画家と建築家』(青幻舎、令和元年5月)によれば、太田は一中進学後、図画教員矢野倫眞の感化により、洋画に目覚めたという。また、同級生である岩村金三郎の兄岩村透から、洋画を勉強するには東京美術学校を卒業してから、フランスに留学するとよいと教えられたともある。一中時代(明治30年4月~35年3月)の太田が絵の勉強だけでなく、水泳の観海流にも熱心だったことがうかがえる雑誌『わたつみ』である。「国会図書館サーチ」ではヒットしない貴重な雑誌だ。

太田喜二郎《窓辺読書》明治43年京都国立近代美術館
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*1:『太田喜二郎と藤井厚二』によると、太田と藤井、康一の父貴志彌右衛門の3人は親しかったようで、昭和10年4月2日二人が出席した彌右衛門の茶会を太田が描いた《寿月庵茶会絵巻》が残されている。また、太田の日記昭和11年1月18日の条には太田と藤井が彌右衛門の茶会に招かれている旨の記載があるという。