神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

手に負えない男だった紅玉堂書店の前田隆一

金子光晴『どくろ杯』に紅玉堂書店の前田隆一に関する記述があった。

松村(英一)さんは、別に、神田の紅玉堂という出版屋を世話してくれた。主人は、前歯が出て、凶悪犯人の顔写真のような顔をしていたが、果せるかな、吝嗇で、狡猾で、手に負えない男だった。(略)紅玉堂の泣所の一つは、松村さんだった。松村さんの口利きで、紅玉堂は、ともかくも私のへたな翻訳詩集『仏蘭西名詩選』と、アルセーヌ・ルパンのなかの『虎の牙』を、黒部建(ママ)彦の名で翻訳して出した。(略)
紅玉堂の本は出たが、支払いの日が来ても金を払わなかった。事務所の方では、何度足をはこんでも埒があかないので、住居の方へ出かけてみた。紅玉堂夫婦は、事務所風な建物の二階のがらんとした部屋のなかに、戸棚がないのか、寝具を箪笥とならべて積上げた前に長火鉢を置いて、坐っていた。一時間くらいの押問答がつづいた。そばできいていた細君のほうがみていられなくなって、「折角、若先生が遠方から、再三足を運んでみえるんだから、払ってあげたらどうなんです」と言われて、反っ歯の顔を壁のほうへむけて、自嘲するように嘯(うそぶ)いてから、この細君になにか逆らえないことでもあるのか−−それも、彼の泣所かもしれなかったが、しぶしぶ、大きな蟇口を出して、五十銭銀貨ばかりで、三十円を畳のうえにならべた。

「『仏蘭西名詩選』」は、大正14年8月に紅玉堂から刊行された『近代仏蘭西詩集』のことだと思われる。また、モーリス・ルブラン『虎の牙』の翻訳書は、同社発行分では確認できないが、黒部健彦訳『見えざる悪魔』(金剛社、大正15年2月)のことだろうか。金剛社は、前田が独立するまで勤めていた東雲堂書店社長西村辰五郎が経営する書店*1なので、紅玉堂から出さずに、東雲堂=金剛社に紹介したのかもしれない。



(参考)「紅玉堂主人前田隆一」(8月31日

*1:『松本泰秘密小説著作集 呪いの家』(金剛社、大正11年11月)の発行者は日本橋区檜物町九番地西村辰五郎。発売所は檜物町 東雲堂書店。