神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

へちま倶楽部の『金曜』創刊異聞ー忍頂寺務宛の増田五良・西村貫一書簡がネットで読めるよー

 
みなと元町タウンニュース』(みなと元町タウン協議会)では、平野義昌「海という名の本屋が消えた」が引き続き連載中。「元町の月刊タウン誌「みなと元町タウンニュース No.368」発行|みなと元町タウンニュース|元町マガジン|神戸の良さが元町に、神戸元町商店街」掲載分の「西村旅館(5)」で拙ブログ「へちま倶楽部の西村貫一と雑誌『金曜』(へちま文庫)ーー『金曜』の終刊時期はいつかーー - 神保町系オタオタ日記」に言及していただいて、あらためてありがとうございます。
 さて、西村旅館の経営者だった西村貫一が創立したへちま倶楽部の機関誌『金曜』について、面白いネタがある。このブログで何度か言及した『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)の内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」である。ネットで読めます。→「「近世風俗文化学の形成」成果報告」ここには、西村13通、へちま倶楽部4通、増田五良(『金曜』編集同人)9通の書簡が含まれている。このうち、昭和23年12月28日付け消印の増田書簡の内容要約を引用しよう。

金曜会は絶えることなく続いている。11月末の時は高安六郎氏に話をしてもらい、盛会。会からポケット型の『海光』という小冊子を出そうという話が出ていて、自分と長田氏*1が編集を担当する。1月末には創刊できそうである。ついては、貴方が『読書展望(ママ)』寄稿用に書いた「よしこの節に就て」の原稿を載せてもよいか。 

( )内は、内田氏による注

 「小冊子」は、内田氏が同目録の備考欄に記しているとおり、『金曜』のことで、創刊号(昭和24年1月発行)に忍頂寺の「よしこの節」が掲載された。この書簡により、『金曜』は発行直前までタイトルは『海光』で進められていたことが分かる。いかにも港町神戸らしいタイトルですね。

*1:『金曜』編集同人の長田富作

『上方』創立期の南木芳太郎と建築家池田谷久吉


 1月13日みやこめっせで開催された文学フリマ京都で、『上方:お化け研究』(上方お化け研究会、令和5年12月)を購入した。表紙や目次が見事に南木芳太郎が主宰した『上方:郷土研究』へのオマージュとなっている。
 上方郷土研究会編『上方』は、南木により昭和6年1月創刊された。その直前の南木の日記『南木芳太郎日記一』(大阪市史料調査会、平成21年12月)に次のような記述がある。

(昭和五年)
十二月三十日
(略)東京藤田徳太郎氏、池田谷久吉氏、木谷蓬吟氏、名古屋石田元季氏*1後藤捷一*2、菅竹浦氏各方面へ「上方」寄贈の手数をする。(略)

 『上方』創刊号を献本された人の中に、池田谷久吉(いけだや・ひさきち)の名前がありますね。池田谷については、昨年10月から12月*3にかけて出身地である泉佐野市の歴史館いずみさので「泉佐野の建築家ー池田谷久吉とその生涯ー」が開催された。図録の年表から、昭和6年前後の経歴を引用しておこう。

明治30年4月 泉南郡佐野町生
大正6年3月 市立大阪工業学校建築科卒
大正11年2月 大阪府建築監督官補任命
大正15年8月 大阪府庁退職
同月 池田谷建築事務所創立
昭和4年 大阪府史跡名勝天然記念物調査委員任命
昭和8年5月 京阪電鉄株式会社業務嘱託

 南木と池田谷がいつどのようにして知り合ったのかは、不明である。池田谷の没後60周年記念に刊行された池田谷胤昭編『建築家・郷土史家池田谷久吉の生涯』(池田谷恵美子、平成31年2月)に抄録された古川武志「地域社会における郷土史の展開ー泉州地域を中心としてー」『ヒストリア』大阪歴史学会,平成13年1月は、「『上方郷土研究会』の創立メンバー」としている。この典拠は不明で、池田谷が『上方』に初登場したのは3号(昭和6年3月)の「昭和四天王寺建築図絵」である。
 前掲資料集には、没後50周年記念誌に掲載された「池田谷久吉宛て書簡」が再録されている。これによると、末永雅雄、水谷川忠麿、中村直勝、関野貞*4、藤島亥治郎、滝澤真弓、伊東忠太、魚澄惣五郎、石田茂作、西山夘三、小川翠村、向井久万、出口神暁らからの書簡・葉書が残っていることが分かる。南木からの書簡は残っていないだろうか。
 1年前に亡くなられた青田寿美先生から御恵投いただいた『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)の内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」に19通の南木からの書簡の内容要約が載っている。あらためて青田先生の御冥福をお祈りします。
 昭和5年12月23日付けの忍頂寺宛南木書簡の内容を引用しておこう。

便箋1枚。印刷物1点。玉稿を給わり、お蔭で創刊号を飾ることができた。しかし、20日発行の予定が送[ママ]れ、25日に発行すべく目下印刷中。出来次第送付する。湯朝竹山人の現住所を知っていたら、雑誌を送りたいので知らせてほしい。『上方』創刊号のチラシを同封。

 「玉稿」とは、忍頂寺が創刊号に寄稿した「東山絵巻その一 二けん茶屋」である。創刊号に記載された印刷日は昭和5年12月25日、発行日は昭和6年1月1日である。南木の日記によれば、昭和5年12月25日には初摺を仮綴にした1部だけを受け取っている。翌26日に製本50部を受け取り、早速梅谷紫翠、川崎巨泉、中井浩水*5、富田*6やマスコミ(大阪朝日新聞、夕刊大阪新聞)、高尾彦四郎(高尾書店)らに渡している。池田谷に渡したのは30日以降なので優先順位が低かったことが分かる。
 池田谷は、『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人_』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)に蒐集分野「古建築、古美術、史蹟、考古学」*7と挙がっている人物でもある。今後も注目していきたい。

三高生の文芸同人誌『素描』(昭和2年)にティー・ルームカナリヤの広告


 昨年秋、知恩寺の古本まつりでは、例によって竹岡書店の均一台でくろっぽい雑誌や小冊子を拾えました。今回紹介する『素描』2号(素描社、昭和2年6月)もその内の1冊である。表紙に「デツサン」とあるので美術雑誌かと思ったら、文芸雑誌であった。
 発行所の素描社が第三高等学校内にあるので調べてみたら、三高生による同人誌であった。『第三高等学校一覧 自昭和二年四月至昭和三年三月』(第三高等学校昭和2年7月)から同人の在籍状況をまとめてみた。

『素描』同人
井島勉 理科乙類3年
今中武夫 (大正12年三高文科甲類卒業後、大正15年東大法学部卒を経て昭和2年京大文学部入学)
花田文夫 理科乙類3年
梶野あきら 理科乙類3年
掛見保松 理科乙類2年
高橋寿男 理科甲類3年
中尾常之 理科乙類2年
野々口敏彦 理科甲類3年
佐野次郎 理科甲類3年
下村虎一 理科乙類3年

 理科の生徒だけで文芸同人誌を出していた。例外は今中で、文科のOBで昭和2年当時は京都帝国大学文学部の学生であった。同時期に理科では西山夘三松田道雄、文科では小川環樹、辻野久憲、藤林益三、室賀信夫がいたが、同人でないのが残念。奥付によれば、「京都古書組合のムードメーカーだった若林春和堂の若林正治 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した教科書販売で知られる若林春和堂が本誌を販売した。しかし、売れたとは思えない。今なら文学フリマで売るのだろう。目次も挙げておく。表紙を描いた森脇忠は、三高で図画担当の講師を務めていた画家である。

 京都の雑誌ということで、広告が楽しい。オーシス食堂(東門東)、上西ミルクホール(東門前)、簡易熊野食堂(丸太町新道)、上木堂洋服店(丸太町河原町)など。驚いたのは、表紙裏にはテイー・ルームカナリヤ(河原町蛸薬師)の広告があった。「三条河原町にあったカフェーカナリヤとマヴォイスト渋谷修ーー斎藤光『幻の「カフェー」時代』(淡交社)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した喫茶店である。三高生のたまり場になっていたのだろう。

志ある司書は取りあえず『帝国図書館コレクション案内』(近代出版研究所)を買っとけ!

 
 近代書誌懇話会編著『帝国図書館コレクション案内:請求記号から見た蔵書構成』(近代出版研究所、令和5年12月)を御恵投いただきました。ありがとうございます。
 「本書の意義」によれば、「本書は現在、国会図書館(以下、NDL)が所蔵する本(国会本)の請求記号から、その本の来歴を明らかにする便覧」である。ややマニアックな内容で、門外漢にはよく分からない部分もあった。しかし、「腰掛け司書」ならざる志ある司書の皆様は、取りあえず買っておきましょう。ネットで注文できるが、多分公費対応はしてないので国会図書館(納本されるだろう)を除き、図書館では見られないと思われる。→注文は、皓星社の「帝国図書館コレクション案内 請求記号から見た蔵書構成 | 皓星社ウェブストア
 例示として挙げている国会図書館の蔵書には、特に近代出版研究所長の小林昌樹君の趣味が反映しているようだ。福沢諭吉関係書が複数あるのは、小林君が慶應義塾大学出身だからだろう。また、「羅馬法及古代法」に分類される菊池武夫述・高松太喜次編『古代法』(東京法学院、明治27年)は小林君がローマ帝国史を専攻したためと思われる。その他、西沢勇志智『炭素太閤記』(慶文堂書店、大正15年)*1山下武『書物万華鏡』(実業之日本社、昭和55年)の例示にはニヤリとさせられた。
 さて、本書50頁は、戦後内務省書庫から米軍に接収され米国議会図書館の蔵書となり、昭和51年から53年にかけて日本へ返還された発禁本の蔵書に言及している。しかし、蔵書の例示はされていない。そこで、私の趣味で酒井勝軍『太古日本のピラミツド』(国教宣明団、昭和9年7月)を挙げよう。請求記号は函:特501、号(受入順)は101である。→「太古日本のピラミッド - 国立国会図書館デジタルコレクション
 同書は、国会図書館デジタルコレクションで見られて、内務省の検閲官による発禁の伺い文が書き込まれていて面白い。「天皇ハ日本一国ノ天皇ニ非ズトナシ(四頁)世界ニ君臨スベキ事理ヲ論ズル(一二頁其他)ニ当リ其論証方法トシテ神武天皇以前ノ皇統譜出現及鵜草不葦合朝ノ存在ヲ云為(三一、四七、五四、五五、五七、五八頁)スルハ皇統並ニ国史ニ紛更ヲ来スモノト認ム」とある。事務官や内務省警保局図書課長の決裁印も押されたほか、「神社局考証課同意見」とあるので同省神社局にも意見照会していたことが分かる。
 『太古日本のピラミツド』は昭和9年7月25日発行で、発禁処分は同月27日である。内務省の受付印は同月25日なので、出版法が定める発行の3日前までの届出義務に違反していたことになる。「警視庁(清水)内地殖民地手配、記入スミ」との書き込みもあり、警視庁により直ちに差し押さえられたと思われる。しかし、「国教宣明団から酒井勝軍『太古日本のピラミツド』発行の案内状ー皇明会の四宮憲章宛ー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように事前に発行予告の案内を送り注文を受け付けていたし、内務省への届出も遅れたので、半分しか押収できなかった。これは、『出版警察報』72号(内務省警保局、昭和9年9月)の「出版法ニ依ル出版物差押成績表(七月分)」に記載されている。それによれば、3千部発行で差押部数は1,525冊であった。武内裕『日本のピラミッド』(大陸書房、昭和50年12月)57頁に「大半が国家に没収されたため今や全国に数冊しか残っていないという稀書」とあるが、実際には半数しか没収されていないことになる。ただ、古書市場では滅多に出ず、私も一度だけ東京古書会館で見たが高くて買えなかった。
 ところで、私は米国から発禁本が返還されたというニュースで数冊画面に映った本の中に『太古日本のピラミッド』があったのを今でも覚えている。国会図書館の担当者の中にトンデモ本が好きな人がいたのだろうか。

*1:横田順彌『日本SFこてん古典』(早川書房、昭和55年5月)の「第1回理科読本 炭素太閤記」で紹介された珍本

国教宣明団から酒井勝軍『太古日本のピラミツド』発行の案内状ー皇明会の四宮憲章宛ー


 昨年12月平安蚤の市で酒井勝軍『太古日本のピラミツド』(国教宣明団、昭和9年7月)発行の案内状を購入した。pieinthesky氏からで、1,000円。近代ピラミッド協会創立のきっかけとなった武内裕『日本のピラミッド』(大陸書房、昭和50年12月)がセンセーショナルに再評価した『太古日本のピラミツド』の案内状となると、買わざるを得ない。
 葉書の文面は
・去る4月末広島県比婆郡で2万2千年前のピラミッドを発見
・従来の万国史を根底から覆すべきもので、僅か1ヶ月で日々数百人の参拝者を見るに至り、最近では千名を超す勢い
・この発見は、日本天皇の世界君臨を裏書きするものなので、同志の援助により1日も早く本書を普及させたく案内を呈上
・7月20日までに発行予定
などが記載されている。広島県で葦嶽山ピラミッドが発見されたのは、昭和9年4月23日で、『太古日本のピラミツド』が発行されたのは同年7月25日である。
 宛先は、豊島区巣鴨の四宮憲章である。四宮は記憶にない人物だ。しかし、藤原明『幻影の偽書竹内文献』と竹内巨麿超国家主義の妖怪』(河出書房新社、令和2年1月)89・90頁に出ていた。

(略)巨麿の前に、昭和九年のこと、大阪で皇国日報社を経営する木村錦洲(本名準治)が、「皇祖皇太神宮は必ず再興してみせる。本を書いて大いに世界に紹介してやろう」と大風呂敷きをひろげた。木村と巨麿の出会いはこのときがはじめてではない。昭和六、七年頃に酒井勝軍のシンパの一人、立憲民政党衆議院議員中村嘉壽(一八八〇~一九六五)に連れられて神宝を拝観した時からである。昭和七年に木村が発行した『皇国神典』によると、この当時海軍元帥東郷平八郎を最高顧問とする皇明会(会長は、国学者漢詩人の四宮憲章)と連盟して活動。巨麿に本の出版を持ちかけた昭和九年前後には、大阪神代秘史研究会という団体の有力メンバーの一人として活躍、東郷平八郎や四国剣山のソロモン秘宝の発掘に乗り出した海軍の山本英輔*1(略)など、軍の将官とも親交を有していた。(略)

 四宮は、『大日本神皇記』(皇国日報社、昭和9年5月)を刊行した木村と親しかったようだ。酒井は、こうした竹内文献の信奉者を通して四宮と知り合ったのだろう*2
 四宮が会長を務めた皇明会について、栂坂昌業編『団体総覧』(大日本帝国産業総聯盟団体研究所、昭和9年9月)から要約しよう。なお、所在地の地番は省略したが、葉書の宛先と一致している。

皇明会 東京市豊島区巣鴨町
創立 大正8年2月11日
目的 本会は、皇国の意義を闡明し、国体の精華を宣揚するを以て目的とす。
綱領 一、我国体の淵源に則り皇国たるの真意義を明にする事
   二、我惟神の皇道に則り、敬神、尊皇、愛国の旨を明にする事
   三~五 略 
役員 代表 四宮憲章

 また、四宮の経歴は『日本現今人名辞典』(日本現今人名辞典発行所、訂正2版明治34年12月)に出ていた*3。要約すると、

四宮憲章(しのみや・けんしやう) 
慶応3年阿波郡尾開村*4に阿州藩儒四宮哲夫の三男として生まれる。号鳴洲。
20歳で東上して、三島中洲の門に遊び、後高等師範学校を卒業し教育事業に従事。
明治文学会を創立し、雑誌『明治文学』*5主筆たり。
著作 『明治詩文大成』、『作詩法講義』など

 この頃は、教育者、文学者だったが、後には極端な国家主義者になったことになる。国家主義者としての側面は、長谷川亮一『「皇国史観」という問題:十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』(白澤社、平成20年1月)に出てくる。昭和10年2月7日衆議院に提出された「皇国国体号確立ニ関スル請願」の請願者として紹介されている。当時の肩書きは、法政大学・二松学舎教授であった。
 四宮は、酒井とそれほど親しくはなかったかもしれない。『神秘之日本』酒井勝軍追悼号(神秘之日本社、昭和15年11月)の「弔慰電報を賜はりたる御芳名」、「弔問弔詞を賜はりたる御芳名」や「御香奠、御供物を賜はりたる御芳名」に名前は見当たらない。ただし、後二者は「印刷原稿締切の都合上、以後の御芳名略」とあるので、省略された可能性はある。
 私は、学生時代の昭和56年8月21日~23日にUFO超心理研究会の後輩と葦嶽山ピラミッドに遠征した。同行したのは、2人のK君とU君の3人だったか。その時の写真を下に挙げておく。21日の夜は葦嶽山の頂上に皆でゴロ寝、22日は広島市内のU君の実家に泊めていただいた。葦嶽山に登ったマニアは多いだろうが、山頂に泊まった人はほとんどいないだろう(^_^;)
参考:「日本ピラミッドの父梅田寛一 - 神保町系オタオタ日記

*1:剣山に隠されたソロモン王の秘宝をめぐる怪しい人達(その1) - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:久米晶文酒井勝軍:「異端」の伝道者』(学研パブリッシング平成24年8月)には、四宮憲章は出てこない。

*3:国会図書館サーチでは松本竜之助『明治大正文学美術人名辞書』(国書刊行会、昭和55年5月)もヒットするが、未見。追記:松本龍之助編『明治大正文学美術人名辞書』(立川文明堂、大正15年)の複製版で、四宮憲章に関する記述は同内容。

*4:徳島県阿波市市場町尾開

*5:国会図書館が4号-9号(明治27年7月-12月)を所蔵

無銭探検家中村直吉とパリ滞在中の和田英作との接近遭遇


 昨年縁があって、『神保町 本の雑誌』(本の雑誌社、令和5年11月)に「なぜ『神保町のオタ』を名乗るのか」を寄稿しました。そこでは中学生の時に買った『SFマガジン』世界は破滅する!特集(早川書房、昭和49年10月)でヨコジュン(故横田順彌*1)の連載「日本SFこてん古典」に出会ったことを書きました。その出会い以降、ヨコジュンの古書を使った主に明治期の人物にかんする研究やハチャハチャSFに熱中したものです。
 中村直吉という探検家を知ったのもヨコジュン経由でした。『明治不可思議堂』(筑摩書房、平成7年3月)*2の「ふたりの無銭探検家」では、次のように紹介されている人物です。

(略)直吉は慶応元(一八六五)年愛知の豊橋に生まれた。(略)
 最初の外国旅行は明治二十一年だった(略)
 二十七年に今度はカナダとハワイに渡り、三十一年帰国。(略)明治三十四年、六十か国、十五万マイルの旅に出るのだ。しかも、無銭旅行で行く先々で金を稼いだり、援助してもらって旅を続ける。(略)晩年は豊橋の市会議員に立候補したものの落選。昭和七年、南アメリカへ移住の準備中に死去した。

 中村による明治30年代の探検は、押川春浪との共編『五大洲探検記』全5巻(博文館、明治41年~45年)として刊行されている。そのうち、第3巻『鉄脚従横』(博文館、明治43年4月)の「(二四)光輝と暗黒の巴里」を見てみよう。

 明治三十六年一月一日、林君*3主催の新年宴会で、多くの在留日本人と相知るの栄を得た。(略)
 洋画家の和田英作君なども当時巴里に居た。同君にも此宴会が初対面の場所だ。
(略)
 一日和田英作君を其下宿に訪問した。恰度裸体画の製作中であつた。是は慥か大阪博覧会に出品された筈だ*4。其時同君の話しに
「此下宿へは時々吾々の話仲間が寄つて、気焔の吐きッ競を行ふが、皆無遠慮な連中ばかりだから、四辺構はず大きな声を出す。スルト隣室に下宿してる仏人が、日本の野蛮人!と怒鳴る騒ぎ(略)」といふ一節があつた(略)

 この中村の記述を裏づけるのが、静岡県立美術館で見た「和田英作展」(平成10年8月~9月)の図録で翻刻された和田の日記*5である。

明治三十六年
一月
一日 曇 夜に入り雨(木曜日)
 (略)今夜の公使館の夜会は面白かつた。(略)午前二時に武田君*6と帰宿して、同君の室で咄しをして居たら、下の室から大声でSauvageと奴鳴られた。此先生少々神経病で夜寝らぬ相だが、僕等の夜更まで咄して居たのも悪い。
十三日 晴風 寒し
 (略)世界旅行者の中村直吉氏の訪問せらるゝに遇ふた。一向に教育も無い男の様だが其堅忍不抜の精神は実に驚くべきものだ。茶を供しなどして同氏の旅行談を聞いた。直木*7、柳野、藤村*8三君も丁度其時訪ひ来られた。僕は伯林の玉井喜作君に出来る丈けの世話をして上げて下されと紹介状を書いた後で紐育の矢崎俊ちゃんにも宛てゝ紹介すればよかつたと思ふた。(略)
十四日 晴
(略)世界旅行者中村直吉氏此宿屋に転じたしとて頼みに来た。おかみさんに問ふたら明(空)室が無いとの事だつた。今日武田君と林忠正氏方に先月の礼をいひに出懸けた。(略)
二十三日 (略)中村直吉氏がいよ\/倫敦へ出懸けますとて暇乞に来られた。

 日記明治36年1月1日の条中の「公使館の夜会」が中村の言う「林君主催の新年宴会」に当たるのかは、不明である。しかし、和田の日記によって、中村と和田が巴里で出会ったことや、和田が同じ下宿のフランス人から「野蛮人」と怒鳴られたという中村の記述が事実だと裏付けられた。日記好きのオタどんでも、こういう展覧会の図録に掲載される日記の翻刻は見落としやすいので要注意ですね。
 
参考:「和田英作が夢見た欧州模写名画美術館 - 神保町系オタオタ日記

*1:今日は、横田順彌の命日ですね。

*2:画像は、ちくま文庫版(平成10年3月)

*3:画商の林忠正。「島田筑波と春峰庵事件の金子孚水による『孚水ぶんこ』ーー若井兼三郎の蔵書印「わか井をやぢ」についてーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:明治36年大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に出品された《こだま》か。

*5:泰井良「和田英作『欧州日記』[資料編]」

*6:建築家の武田五一

*7:東京市築港調査課長の直木倫太郎

*8:画家の藤村知子多

玉川大学出版部の前身イデア書院が創刊した『児童文学』ー玉川大学出版部100周年ー


 今年も後2日ですね。年内にどうしてもアップしておくべきネタが残ってました。ジュンク堂書店池袋本店で2月19日まで「イデア書院→玉川学園出版部→玉川大学出版部100周年フェア」(honto店舗情報 - 【4F人文】玉川大学出版部100周年フェア)を開催中。玉川大学出版部の前身(玉川学園出版部)の前身であるイデア書院は、小川国芳により大正11(1922)年12月25日創立された。したがって、厳密には昨年が創立100周年であるが、実際の出版活動は大正12年からということで今年を100周年としているようだ。
 手元に『児童文学』第1号(イデア書院、大正12年5月初版・同年6月3版)がある。平成29年8月下鴨納涼古本まつりで三密堂書店から200円で入手。貴重な本のようで、玉川大学教育学術情報図書館と神奈川近代文学館が第1号を所蔵しているぐらいだ。
 『玉川学園五十年史』(玉川学園、昭和55年10月)によれば、イデア書院は大正12年1月雑誌『イデア』を創刊し、同年6月頃から子どものための雑誌として『少年文学』*1(高学年)、『児童文学』(中学年)、『コドモ文学』*2(低学年)の3種を創刊した。家蔵の『児童文学』第1号は3版なので、ある程度好評だったのだろう。しかし、時期が悪かった。大正12年は9月1日に関東大震災が発生した年である。そのためであろう、前記『玉川学園五十年史』に、『児童文学』12月号に集金が進まず6千円強もの未収金があり、このままでは継続困難なので休刊したいとの発表があるという。

 目次を挙げておく。著者名がないので一部補足すると、「一房の葡萄」は有島武郎、「山幸彦海幸彦」は奥野庄太郎、「椿の島」は荻原幾太郎、「さんちやんのひよこ」は同誌編集者の斎田喬、「吾等は七人」はウーワズワース、「王様とシヤツ」はトルストイ、「愛の学校」は三浦修吾*3(アミーチス「クオレ」の訳)の作品である。面白いのは、荻原幾太郎は荻原井泉水のことだが、同号には「作者は有名な詩人です。月に吠える。青猫。などの詩集をおもちになつてゐられます」とあり、萩原朔太郞と誤解している。イデア書院は、まだまだ駆け出しの出版社であった。
参考:「『児童百科大辞典』完結で賑わう玉川学園出版部と京都の書道家多和格 - 神保町系オタオタ日記

*1:『日本児童文学大事典』第2巻(大日本図書、平成5年10月)によれば、大正12年5月~11月(6号)まで確認されている。

*2:正しくは、『コドモの文学』か。

*3:杉浦非水装幀のドストエフスキー著・三浦関造訳『カラマゾフの兄弟』(金尾文淵堂、大正3年) - 神保町系オタオタ日記」参照