神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

和田英作が夢見た欧州模写名画美術館

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都立中央図書館で開架の文学全集や伝記の棚をブラウジングしたことがある。高橋箒庵の日記『萬象録』もそこにあったのだが、茶人の日記ということでスルーしてしまったようだ。しかし、精読すると多彩な人物が登場して驚く。既に何度もブログのネタに使わさせていただいたが、今回は洋画家の和田英作である。
巻7(思文閣出版)では、欧州模写名画美術館の構想を語る和田英作が出てくる。

(大正八年)
九月十日
(略)
[欧州模写名画陳列館築造案]
当日午餐中、余は村井吉兵衛氏と和田英作氏とのあいだに夾まりて種々雑談せしが中に、和田氏は日本に於ては到底西洋の有名なる油絵を買収する事能はざるが故に、拙者は門下生率ゐて欧州に渡り、彼の国にても最も有名なる油絵約百面を模写し、之を日本に持ち帰りて欧州模写名画美術館を造り我が油絵家に向つて参考品を与ふる事、我が美術発展の為め最も必要なるを感ぜりと語られければ、余は村井氏に勧めて、是れは最も名案なれば、村井氏は和田氏に右の模写事業を委嘱し、名画模写成就も暁に村井美術館を造りて永久に欧州名画を日本に紹介するの美学を決行するに於ては、最も高尚に且つ真摯なる公益事業なるべしと勧告したるに、村井氏も尤もなりとの事に就き、余は和田氏に対して至急其模写に要する経費及び同陳列館建築費等を取調べ、然る上にて具体的に村井氏に向つて此計画を遂行すべく懇望すべしと言ひたるに、和田氏は是れ拙者が一生の念願なれば至急其調査を為すべしと語り居れり。

[ ]内は、原本欄外にある見出しを校訂者が本文に挿入したもの

戸田書店清水本店でもらった『季刊清水』34号和田英作特集(平成9年11月)の年譜(岡部芳雄編)によれば、和田は明治7年鹿児島県生、32年からベルリン博物館のフィッシャーの委嘱により日本美術品の目録作成のためベルリンへ、33年から文部省留学生の辞令を受けパリに行った。36年ルーブル美術館でのミレー「落穂拾い」模写を最後にパリを出発し、帰国後、東京美術学校教授となっていた。
日記中の煙草王村井をパトロンとする欧州模写名画美術館はおそらく実現しなかっただろう。『萬象録』巻8大正9年3月31日の条には和田から「欧州油絵名画模写団派遣の計画書」が届いたとあり、同年4月6日の条には高橋が村井邸を訪問したことが記載されている。

(略)余は和田氏に談じて其模写油絵数並に其模写費用等を計算せしめしに、此程調査出来、欧州中名画家として知られたる者は約百五十名にして、其一人に就き二枚の画を写せば三百枚なるが、猶ほ其外に百枚位を附け加ふれば略ぼ欧州名画を網羅する事を得べく、而して其費用は主任一名、技術家五、六名にて八年を費し、約六拾万円位なるべしとなり。余は今日此計算書を持参して村井氏に示せしに、園遊会前非常に混雑し居れば其後に於て緩々拝見の上何分の愚考申出づべしとの事なり。
(略)

同年中の日記には、その後の経緯について記載はない。また、巻9は未だ刊行されていない。和田は、大正10年に日仏交換展の代表使節として渡欧、翌年帰国。昭和7年東京美術学校長となる。高橋は昭和2年没、村井は大正15年没。和田は、晩年清水市三保に移り、昭和34年そこで亡くなっている。かつて夢見た欧州模写名画美術館のことを思い出すことはあっただろうか。