神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都古書組合のムードメーカーだった若林春和堂の若林正治

山崎書店が月末の土日に元田中の倉庫でセールをやっている。図録が多いので、美術書に関心のある方向けである。ちなみに山崎書店で働いていた人が独立してマチマチ書店を始めた。無店舗でネット専門だが、時々街々に出没するようで、現在はマヤルカ古書店らと京都マルイ2階に出店している。今月7日(月)までだが、以後も今月21日(月)まで様々な店と共同で出店するようだ。詳しくは、「マチマチ書店ウェブサイト」を見られたい。山崎書店の倉庫セールへは私は一度だけ行って『麻田鷹司ーー京都市立美術工藝學校時代の日記ーー』(麻田光子、平成12年4月)を購入。値付けはされていないので、その場でしてもらって1000円。読んでいたら、ちょうど第33回関西文脈の会「昭和伏見の古書研究者ーー『書物航游』に見る酒仙・若林正治ーー」(若林正博氏)で発表のあった若林春和堂が出てきた。

昭和十六年四月十五日 曇 一時 晴
(略)歸り、若林へ行って英語と教科書と英習字帳を買った。
(同年)五月二日 (略)川島くんと一緒に若林へ地理概説附圖(五訂)を買ひに行った。(略)
(昭和十七年)四月三十日 木曜日 晴
(略)僕が休んで居る中に、皆が東洋史を買ったので、歸り若林へ寄ったが品切だが、取り寄せて置くと言った。(略)
(昭和十八年)三月二十四日 水曜日 曇
午前中、寺町二絛の若林で、教科書を賣るので、九時頃、買ひに行った。二冊しか無かったが、全額拂って歸った。(略)
(昭和十九年)四月十八日 火曜日 曇後雨
(略)歸り若林で整理衛生の教科書を買った。(略)

若林春和堂は『京都書肆変遷史』には、「若山屋茂助・春和堂」として立項されている。安政年間に二条通富小路に開業、医学書その他出版及び一般書籍の小売を行った。明治22年に寺町二条へ移り、店名を若林春和堂とし、特に教科書に力を入れた。出版物も次第に医学書から中学、高等学校の教科書類に移行したという。なるほど、麻田ももっぱら若林春和堂で教科書を買っていて、「教科書に力を入れる」という記述が裏付けられる。
『京都書肆変遷史』では、伏見店を任せられた正治について、三高時代から古書に興味を持ち、学校の往復時には丸太町の古本街をよく覗いたことやその見識が業界は勿論広く関係学者達にも信頼され、全国に名を馳せたことが書かれている。これについては、関西文脈の会の発表で使われた平澤一『書物航游』に出てくるというので、早速中公文庫版を見てみる。なるほど、巻末の「古本屋列伝」に創造社書店(藤原富長)、八木書店八木敏夫*1)、北川白州堂(北川光蔵)とともに紹介されていて、正治に関する記述が3分2を占める。会津八一が店の扁額に揮毫していること、生涯師事していたのは三高時代の生物学の教師石橋栄達と龍谷大学の教授禿氏祐祥だったこと、フランク・ホーレーや金魚研究家松井佳一の蔵書の売り立てに関与したことなどが書かれていて、とても刺激的であった。なお、正治の孫に当たる正博氏の発表*2によると、禿氏、新村出寿岳文章の賛同を得て、和紙研究の本を刊行したという。『書物航游』は昔読んだはずだが、すっかり忘れていた。この平澤の本も古本者必読の本だ。若林に関する次の一節が印象的。

若林さんが市会に出品すると、「何となく、若さんの香りするふみ(書)ありて市のムードに充実感あり」と同業者が詠んでいる。若林さんの出品する本には、丸に十字のマークが入っていた。古書組合の仕事には、若林さんは進んでよく尽した。市会の値札を読みあげるなどは序の口であったが、その声にはツヤ(艶)があったと聞いている。

若林正治は昭和59年7月没。今京都の古書組合の市会に正治のようなムードメーカーは居るであろうか。

書物航游 (中公文庫)

書物航游 (中公文庫)

*1:神保町の八木書店の創業者とは別人

*2:第33回関西文脈の会まとめ」参照