神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『上方』創立期の南木芳太郎と建築家池田谷久吉


 1月13日みやこめっせで開催された文学フリマ京都で、『上方:お化け研究』(上方お化け研究会、令和5年12月)を購入した。表紙や目次が見事に南木芳太郎が主宰した『上方:郷土研究』へのオマージュとなっている。
 上方郷土研究会編『上方』は、南木により昭和6年1月創刊された。その直前の南木の日記『南木芳太郎日記一』(大阪市史料調査会、平成21年12月)に次のような記述がある。

(昭和五年)
十二月三十日
(略)東京藤田徳太郎氏、池田谷久吉氏、木谷蓬吟氏、名古屋石田元季氏*1後藤捷一*2、菅竹浦氏各方面へ「上方」寄贈の手数をする。(略)

 『上方』創刊号を献本された人の中に、池田谷久吉(いけだや・ひさきち)の名前がありますね。池田谷については、昨年10月から12月*3にかけて出身地である泉佐野市の歴史館いずみさので「泉佐野の建築家ー池田谷久吉とその生涯ー」が開催された。図録の年表から、昭和6年前後の経歴を引用しておこう。

明治30年4月 泉南郡佐野町生
大正6年3月 市立大阪工業学校建築科卒
大正11年2月 大阪府建築監督官補任命
大正15年8月 大阪府庁退職
同月 池田谷建築事務所創立
昭和4年 大阪府史跡名勝天然記念物調査委員任命
昭和8年5月 京阪電鉄株式会社業務嘱託

 南木と池田谷がいつどのようにして知り合ったのかは、不明である。池田谷の没後60周年記念に刊行された池田谷胤昭編『建築家・郷土史家池田谷久吉の生涯』(池田谷恵美子、平成31年2月)に抄録された古川武志「地域社会における郷土史の展開ー泉州地域を中心としてー」『ヒストリア』大阪歴史学会,平成13年1月は、「『上方郷土研究会』の創立メンバー」としている。この典拠は不明で、池田谷が『上方』に初登場したのは3号(昭和6年3月)の「昭和四天王寺建築図絵」である。
 前掲資料集には、没後50周年記念誌に掲載された「池田谷久吉宛て書簡」が再録されている。これによると、末永雅雄、水谷川忠麿、中村直勝、関野貞*4、藤島亥治郎、滝澤真弓、伊東忠太、魚澄惣五郎、石田茂作、西山夘三、小川翠村、向井久万、出口神暁らからの書簡・葉書が残っていることが分かる。南木からの書簡は残っていないだろうか。
 1年前に亡くなられた青田寿美先生から御恵投いただいた『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)の内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」に19通の南木からの書簡の内容要約が載っている。あらためて青田先生の御冥福をお祈りします。
 昭和5年12月23日付けの忍頂寺宛南木書簡の内容を引用しておこう。

便箋1枚。印刷物1点。玉稿を給わり、お蔭で創刊号を飾ることができた。しかし、20日発行の予定が送[ママ]れ、25日に発行すべく目下印刷中。出来次第送付する。湯朝竹山人の現住所を知っていたら、雑誌を送りたいので知らせてほしい。『上方』創刊号のチラシを同封。

 「玉稿」とは、忍頂寺が創刊号に寄稿した「東山絵巻その一 二けん茶屋」である。創刊号に記載された印刷日は昭和5年12月25日、発行日は昭和6年1月1日である。南木の日記によれば、昭和5年12月25日には初摺を仮綴にした1部だけを受け取っている。翌26日に製本50部を受け取り、早速梅谷紫翠、川崎巨泉、中井浩水*5、富田*6やマスコミ(大阪朝日新聞、夕刊大阪新聞)、高尾彦四郎(高尾書店)らに渡している。池田谷に渡したのは30日以降なので優先順位が低かったことが分かる。
 池田谷は、『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人_』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)に蒐集分野「古建築、古美術、史蹟、考古学」*7と挙がっている人物でもある。今後も注目していきたい。