増田五良『金曜抄三題』(五典書院、昭和42年)が出てきた。100円の値札シールが貼ってあるので、三密堂の均一台か。目次も挙げておく。
「前書」によれば、神戸へちま倶楽部の西村貫一の主唱で発刊された同人雑誌『金曜』(昭和24年1月から48号まで発行)に掲載された自身の稿から3篇を選んだ。同人だった西村、忍頂寺務、池長孟、川島禾舟ら、物故した者が少なくなく、同人故友を偲ぶためという。「おくがき」には「知友に贈呈のため私家版として別に百部を摺る」とあり、「日本の古本屋」に出ている昭和43年版は、この私家版だろう。
私が初めて西村を知ったのは、山口昌男『内田魯庵山脈』(晶文社、平成13年1月)だと思う。
西村旅館は明治創業で、満州をはじめとして東アジア関係で要人の出入りが多かったとき、その大半がこの旅館に止宿したので、世にも知られていた。『西村旅館年譜』という旅館の日記が私家版で出されている。西村貫一は戦前日本の最良の国際人の一人で、ゴルフ文献の研究家でトップの人であった。令息はイタリア文化研究家で、「分流」というイタリア・地中海レストランの経営者である。娘さんは京大名誉教授、社会学の作田啓一氏の令夫人で、作家であった。
柳田國男も西村旅館に泊まっていて、年譜*1の明治20年8月31日の条に「神戸の最高級と言われている西村屋に泊まる[『故郷七十年』では九月一日]」とある。経歴は、『兵庫県人物事典』中巻(のじぎく文庫、昭和42年10月)から要約すると、
・明治25年9月生
・神戸港の名物西村旅館の長男。3歳で両親と死別し、乳母や女中に育てられた。
・神戸小学校から関西学院に入学したが、中学5年の時に担任の先生と喧嘩して放校となり、麻布中学に転校
・卒業して神戸に帰るも、旅館を継ぐ気はなく、20歳で外遊。
・音楽に魅せられ、神戸に帰って日本初のマンドリンクラブを結成
・大正7、8年頃、夫婦でゴルフに熱中し、六甲等のゴルフ大会に出場、日本人で初めて優勝。世界中のゴルフ書を収集し、『日本のゴルフ』を出版
・昭和21年1月「百人会」から発展させ、「へちまくらぶ」というクラブハウスを建て、政治家、芸術家、会社重役等300人の「へちまくらぶ」をスタート
・「全日本文化協力会」を組織し、ポケット版の雑誌『金曜』を発行。昭和24年1月創刊から28年2月まで続けた。子の雅貫と雅司は特殊カメラ研究家となった。
昭和35年2月没
このほか、文献としては湊東古書四時雑記「へちま倶楽部と貫一」『ほんまに』14号(くとうてん、平成23年11月)があるが、未見。
ところで、忍頂寺が同人だったということで、「蔵書印」様にいただきながら宝の持ち腐れだった『近世風俗文化学の形成:忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺:国文学研究資料館公募協同研究成果報告』(国文学研究資料館、平成24年3月)を使う時が来ました。内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」には西村の書簡13通(昭和21年~26年)の記載内容の要約が載っている。そのうち昭和22年7月消印の封書に、印刷物が3点。「関西文化協会」を「全日本文化協会」と改める報告、「全日本文化協会会員規約」、「全日本文化協会会員名簿(1947年夏現在)」が入っていた事が分かる。また、肥田晧三・近衞典子共編「増補改訂忍頂寺務著述目録」には、忍頂寺の『金曜』への寄稿として、1巻1号,昭和24年1月から3巻9号(33号),昭和26年10月までのうち8冊が記載されている。肥田先生のことだから、『金曜』の揃いを持ってるのだろうなあと思ってしまう。
さて、肥田先生も含めて、読者の皆様を驚かせてみせよう。『金曜』の終刊時期である。既に示した文献では、4巻12号(48号),昭和28年2月ということになる。肥田先生も前掲書の「忍頂寺務氏の著作を集める」で「全部で四十八冊出ています」としている。しかし、ここに5巻1号(49号),昭和28年5月がある。表紙、目次と奥付を挙げておく。
元々48号の増田「読者にお報らせ」には、第4巻を完了すること、増田が担当していた編集を始め会計その他の事務から離れ、『金曜』は世話人西村の手で継続する旨が記載されていた。『金曜』は、実際に継続されていたことになる。はたして、50号以降も出たのであろうか。