神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日本最初のムー大陸紹介者三好武二と友松円諦の雑誌『真理』(全日本真理運動本部)

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 法藏館刊行の好著、大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『近代仏教スタディーズ:仏教からみたもうひとつの近代』(法藏館平成28年4月)の坂本慎一「ラジオ説教の時代」に、友松円諦(1895-1973)が出てくる。これによると、昭和9年3月ラジオで新番組『聖典講義』が始まった。最初は友松の『法句経』、続いて高神覚昇(1894-1948)の『般若心経講義』で、どちらも好評であった。放送への絶大なる支持を受け、友松と高神は昭和9年9月全日本真理運動を起こし、翌10年1月に月刊誌『真理』を創刊した。
 最近、文庫櫂から創刊号を入手したので、目次を挙げておこう。
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 友松「『真理』創刊の本願」によれば、

 (略)私達が今、世に送らうとするこの「真理」は私達同人*1同信によつて成立してゐる「全日本真理運動」の機関雑誌です。全日本を仏教的立場に於て全面的に作興、奮起せしめようとする宗教的社会運動の一翼としての「真理」です。だから、私共はたゞ、この雑誌を購読する読者をかき集めたらいいのではなく、この文章的機関によつて更に大きい私達の実践への本願を達成したいと思ふのであります。(略)

 創刊号は、「編輯後記」によれば3万部発行。だが、『人の生をうくるは難く:友松円諦小伝』(真理運動本部、昭和50年2月)の年譜には5万部とあるので、増刷したか。読者はかなり集まったようだ。友松は「大衆雑誌」と位置付けており、1年7号,昭和10年7月に宮沢賢治の遺稿「ツエねずみ」掲載以降、断続的に12回賢治の遺稿童話が掲載されるなど、単なる仏教雑誌ではなかった。同誌1年5号,昭和10年5月に三好武二「南方熊楠研究」が掲載されたことは、「50年後の太平洋と1万2千年前のムー大陸を夢見た三好武二 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。三好は、昭和7年8月日本で最初のムー大陸を紹介した人物である。同誌1年8号,昭和10年8月の「太平洋物語」でも、ムー大陸に言及していた。

(略)英人チヤーチワードが、その五十余年の生涯をうち込んで研究した結果に基く新説ではあるが(略)この大陸はミユウと呼ばれ、地理的にいふと、赤道をさし挟んで、南北に三千哩、東西に五千哩、太平洋の中心部に頑張つてゐたのである。現地図を拡げ、北をハワイ諸島、東南をイースター島、西をわが委任統治のカロリン群島、南をフイヂー島、タイタ島に結ぶと、この線内に囲まれた広大な区域は、ミユウ大陸の旧範囲に当るのだ(略)ミユウの果敢な「日の御子」達は、どの植民地にも母国に劣らない文明を建設した。(略)ピアリー博士らは、エジプトに発した文明の流れが、インドを浸し、太平洋に入り、更に米大陸に上陸したといふ文化移動線を仮定した。チヤーチワードのミユウは、これの全然逆を行くもの、世界の中心を太平洋に求めるのだ。

 この三好の記事で初めてムー大陸を知った仏教関係者も多いだろう。ムー大陸に言及した文献としては、初期の部類に属する*2キリスト者の場合は日猶同祖論という飛びつきやすい入口があったため偽史運動に取り込まれた例は多いが、仏教者ではあまりいなかったようではある。ただし、名義貸しかもしれないが、
ここにも市河彦太郎の影が・・・ - 神保町系オタオタ日記」で言及した皇道世界政治研究所の賛同者に大谷光演の名前がある。
 三好は、『真理』5巻8号,昭和14年8月にも「大陸と人力車」を掲載。前記年譜を見ても、三好と友松の関係は分からなかった。三好は昭和9年に大阪毎日新聞を退社しているが、新聞記者時代の人脈だろうか。
 戦後、友松は、「翼壮区団長」を理由として公職追放。年譜には昭和17年3月翼賛壮年団深川区団長就任、22年大正大学辞職の記載はあるが、公職追放についての記載は無かった。
追記:竹内義宮『デハ話ソウ:竹内巨麿伝』(皇祖先皇太神宮、昭和46年11月)の「主なる神宮拝観者と参拝者」中に年代不詳として大谷光演の名がある。
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*1:友松、高神以外の同人に江部鴨村、真野正順、松岡譲、増谷文雄、梅原真隆、山辺習学がいる。

*2:日本におけるムー大陸受容史ーー「日本オカルティズム史講座」第4回への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」参照

中公新書に「ムー大陸」登場ーー戸部良一『外務省革新派:世界新秩序の幻影』への補足ーー

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 外務省革新派の中心人物だった白鳥敏夫には多少関心があるので、戸部良一『外務省革新派:世界新秩序の幻影』(中公新書、平成22年6月)は前から気にはなっていた。しかし、読まないまま10年以上経ってしまった。ところが、小澤実編『近代日本の偽史言説:歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』(勉誠出版、平成29年11月)の長谷川亮一「「日本古代史」を語るということーー「肇国」をめぐる「皇国史観」と「偽史」の相剋」をあらためて読んでいたら、注25に驚くべき記述が。

(略)かつての外務省革新派のリーダー的存在で、当時は衆議院議員であった白鳥敏夫(一八八七ー一九四九)は、「チャーチワードの著述や契丹古伝」を根拠に、日本は全人類の発祥の地だと主張している(白鳥敏夫「二十世紀の神話」『盟邦評論』第二巻第一一号、盟邦同志会、一九四四年。この時期の白鳥の言動については、戸部良一『外務省革新派ーー世界新秩序の幻影』中公新書、二〇一〇年、二八〇一二八四頁を参照)。

 慌てて、戸部著を読んでみた。白鳥がムー大陸に言及しているという。

 白鳥の日本中心主義は荒唐無稽と言うほかなかった。彼はムー大陸の実在を引き合いに出し、「アメリカの先住民族中南米のそれも皆日本民族であつたのみならず[中略]多くの白色民族なども、本来は日本神族の分れであることがやがて了解されるであらう」と論じ〔「二十世紀の神話」『盟邦評論』一九四四年十一月号〕、「世界最古の文明」は日本にあつた。[中略]キリストであらうと、釈迦であらうと、何れも彼等の説の根本は日本から出てゐる」と主張した〔「世界の現実とその修理」『盟邦評論』一九四四年二月号〕。

 この『盟邦評論』は、白鳥が会長だった「イタリアの友の会」(昭和13年創立)が「盟邦同志会」と改称し、機関誌『イタリア』から改称したものだという*1。トンデモない記事が載る雑誌ですね。それもそのはずで、「イタリアの友の会」はスメラ学塾(昭和15年5月創立)と関係があったようだ(「まだまだあったスメラ学塾関係論文 - 神保町系オタオタ日記」参照)。白鳥自身も、スメラ学塾の創設メンバーである(「スメラ学塾誕生の秘密 - 神保町系オタオタ日記」参照)。更に、天津教の外郭団体とされる皇道世界政治研究所(昭和17年6月創立)の発起人でもあった(「ここにも市河彦太郎の影が・・・ - 神保町系オタオタ日記」参照)。
 戸部著に「ムー大陸」が言及されて、おそらく中公新書としては初めての「ムー大陸」登場だろう。新書御三家としては、講談社現代新書に金子史朗『ムー大陸の謎』(昭和52年11月)があるし、天下の岩波新書でもE・B・アンドレエヴァ著・清水邦生訳『失われた大陸ーーアトランティスの謎ーー』(昭和38年11月)中に「ムー」が出てくる。これで、「ムー大陸」は、新書御三家を制覇した。
 戸部著は、戦後の白鳥について、「戦犯である白鳥は自動的に公職追放の処分にあった」と書いている。間違いではないが、「公職追放に関する覚書該当者名簿」によれば、白鳥の該当事項は、「戦犯大直会有力幹部興亜青年運動本部顧問大和クラブ幹事皇国同志会理事長」である。この「大直会」(昭和19年10月創立)が謎の団体で、私も「大直会とはいったいどんな団体だったのだろうか。 - 神保町系オタオタ日記」などで言及しているが、さっぱり史料がない。もっとも、国会図書館憲政資料室に史料が埋もれているかもしれない。研究者の諸君、ぜひともどなたか大直会の研究にチャレンジしてほしい。

*1:昭和20年6月空襲で盟邦同志会本部が消失し、「世界維新会」と改称、誌名も『世界維新』と改称したが、敗戦までの活動は不明という。

日猶同祖論の聖地、太秦広隆寺「いさら井」の戦前期絵葉書ーー家蔵の宗教絵葉書からーー

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 日猶同祖論とか秦氏ユダヤ人説を知ったのは、『地球ロマン』復刊1号(絃映社、昭和51年8月)だったか。全体の目次、資料目次と参考文献の一部を挙げておく。
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 この濃さ、レベルの高さ。参考文献に挙がっている本を古本屋で必至に探して、入手すると✓するのが楽しみだったっけ。佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)論」『歴史地理』明治41年1月号も収録されている。佐伯は、ここで大酒神社=大辟神社=ダビデ神社、伊佐良井の井=イスラエルの井戸を提唱している。京大UFO超心理研究会に入会して、吉永さんに大酒神社、広隆寺蚕ノ社に連れて行ってもらったものだ。
 今や日猶同祖論の聖地となっている伊佐良井(いさら井)。ググると近年のカラー写真ばかり出ているが、戦前の姿を家蔵の宗教絵葉書で披露しておこう。現在と違って柵で囲まれている。また、現在は井戸枠に「いさら井」と縦書きで彫られているが、戦前は横書きの「井浚」だったことが分かる。
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近代日本における「占い師の饗宴」の研究を求めるーー『目黒占業者組合規約』に「占業者取締規則」(警視庁令)掲載ーー

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 またまた三密堂書店の100円均一台から、お宝本(?)をゲット。『目黒警察署管内目黒占業組合規約 附組合員名簿』(目黒占業組合)。発行年不明、7頁。占業者取締規則(警視庁令)が載っていて、驚いた。
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 霊術などを取り締まる「療術行為ニ関スル取締規則」(昭和5年警視庁令第43号)は知っていたが、占業が取り締まられていたとは、知らなかった。調べると、占業者取締規則は、大正10年4月30日制定であった。療術行為の取締より9年早い。第1条で、「占業者」を「他人ノ依頼ヲ受ケ易、人相、骨相、手相、九星、運勢其ノ他ノ占法ニ依リ将来ノ吉凶禍福ヲ判断スルコトヲ業トスル者」と定義。第2条で、占業者になろうとする者に開業3日前までに住所地の警察署へ届け出るよう義務付けている。規則制定の前にどのような立法事実があったのだろうか。
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 裏表紙の役員名簿も挙げておく。相談役の高島象山は知っているが、他は未知の人ばかりである。霊術家と占業者を兼ねる人もいそうだが、どうだっただろう。なお、組合員名簿には55人挙がっていて、手書きで4人追加されている。
 古代や現代の占いの研究はあるが、近代日本の占い師についての研究はあるだろうか。検索すると、博士論文の鈴木健太郎近代日本における占いとメディア - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科」があって、概要はネットで読めた。論文中に占業者の取締に関する記述があるかどうか。占い師についても、井村宏次先生の『霊術家の饗宴』のような研究書が期待されるところである。

昭和5年岡崎公園で開かれた宗教博覧会の大本館ーー家蔵の宗教絵葉書からーー

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 何枚か宗教関係絵葉書を持っているので、紹介しておこう。昭和5年3月から5月にかけて、岡崎公園で開催された宗教博覧会(日本歴史会主催)に参加した大本館の絵葉書である。三大学則、大本教旨などが掲示されている。シルヴァン書房から300円で入手。おそらくセット物の1枚だろう。同博覧会関係では、永楽屋が「日本の古本屋」に『宗教大博覧会 特設大本館案内チラシ』を出品していたようだ(売り切れ)。宗教団体の絵葉書は何枚かあるが、霊術団体の絵葉書は見たことがない。出してなかったのだろうか。

大正教養主義のシンボル『三太郎の日記』の阿部次郎に届いた第1回分離派建築会作品展の案内葉書

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 ようやく「分離派建築会」に言及した日記を発見。大正教養主義のシンボルとも言うべき『三太郎の日記』の著者阿部次郎の日記である。

(大正九年)
 七月十日(土)
 今日朝から午後にかけて太陽の論文をかきしが日暮より又ぐれてしまひ、文章規範をひろひ読みして漢文も中中よいと思ふ、/来書ーー九鬼、分離派建築会、鈴木三重吉、中目尚義「著作評論」(略)

 第1回分離派建築会作品展は、この月の18日~22日に白木屋で開催された。日記中の来書は、おそらく作品展の案内葉書だろう。現在京都国立近代美術館で開催中の「分離派建築会100年 建築は芸術か?|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto」(以下「展覧会」という)には第3回作品展(大正12年6月30日~7月5日、星製薬楼上)*1の案内葉書が展示されている。第1回の案内葉書はどこかに残っているだろうか。
 案内葉書を貰ったと思われる阿部だが、日記を確認する限りでは、第1回も含めて昭和3年の第7回作品展までどれも観覧の確認はできなかった。案内葉書を送った又は紹介したと思われる第一候補者は、岩波茂雄である。阿部と岩波は、第一高等学校の同級生*2で、『合本三太郎の日記』(大正7年6月)などが岩波書店から刊行されている。そして、『分離派建築会宣言と作品』(大正9年7月)も岩波書店から刊行されているのである。
 阿部と分離派建築会を繋ぐ人物は、他にもいる。芥川龍之介が第1回作品展を観ていたことは、展覧会に出品されている芳名録で確認できる。阿部は、作品展が開催されたその大正9年7月に芥川に会っている。

(大正九年)
 七月三十一日(土) 美学五百、日記三百検印。
 (略)午後一時帰宅、途中で後藤末雄芥川龍之介小島政次[二]郎等にあふ。(略)

[ ]内は、編者の注

 もう一人は、板垣鷹穂である。阿部と板垣が親しかったことは、「阿部次郎と板垣鷹穂の関係 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したことがある。2人で第3回作品展が開催される星製薬ビルの喫茶店にも行っている。

 (大正十年)
 三月四日(金) 米井若主人及村田文学士初対面。
 (略)丸善に行きて大井に贈る絵の本をさがし板垣村田等と一緒に星製薬で茶をのんで四時帰る(略)

 板垣と分離派建築会の関係はよく分からないが、最後の作品展が開かれた4年後の昭和7年に板垣と分離派建築会の堀口捨己の共編で『建築様式論叢』(六文館)*3が刊行され、メンバーの瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、蔵田周忠らが再び集まっている。
 阿部は、しばしば美術展に行っている。例えば、大正9年10月31日には「白木屋の国画創作協会」を観ている。白木屋や星製薬で開催された分離派建築会作品展を観ていなかったとすれば、残念なことである。田路貴浩京大教授は、展覧会の図録所収の「分離派建築会ーーモダニズム建築への問題群」で次のように述べている。

(略)教養主義のバイブル的存在であった阿部次郎の『三太郎の日記』が学生たちに愛読されていた時代である。世界の諸学芸を学び、理想の自己に向かって研鑽を積む学生たちも多くいた。そうした時代の申し子であった分離派建築会メンバーたちも、自己を賭けた創作のために、学識を広げ、感性を磨き、人格の陶冶に努めた。彼らは新しい作品の「創作」に励んだ。

 まさしくその阿部に第1回分離派建築会作品展の案内葉書が届いていたと知ったら、田路先生は驚くだろうか。
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日蓮主義者若林不比等のその後と講談社

 大正8年11月妹尾義郎らと共に大日本日蓮主義青年団を創立した若林不比等という青年がいた。大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか:近代日本の思想水脈』(講談社、令和元年8月)で、久しぶりにこの不比等に再会した。

 ここで、大正十年(一九二一)八月時点での青年団の組織体制を確認しておこう。
 総裁を「釈迦牟尼世尊」、団長を「日蓮大聖人」とし、時友仙次郎(化学工場の経営者)が幹事長、妹尾、若林不比等、金島英夫、小高孝作、勝見賢乗、持徳武雄、深沢孝が常任幹事を務めた。役員はいずれも在家の若者だった。(略)

 この不比等については、海野弘氏も注目する日高みほ(=川上初枝=若林初枝=内山若枝)の最初の夫なので調べたことがある。まとめてみると、

大正8年11月 妹尾義郎らと大日本日蓮主義青年団を創立
大正9年6月 本多日生の『統一』に「雑録:霊夢」を執筆
大正10年 明治大学商科卒(本籍地:徳島県)
同年 講談社入社
同年 11月10日 『雄弁』記者として阿部次郎と会う(「講談社『雄弁』の記者・若林不比等 - 神保町系オタオタ日記」参照)。
大正12年3月頃 川上初枝と結婚(「川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの年譜 - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和8年6月 川上順三(初枝の父)没。大連から成城学園での葬儀へ来る(同上)。
同年12月20日 初江が神主、小田秀人が審神者となる神言拝受式に参加(「霊媒としての内山若枝 - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和11年1月24日 今泉定助の紹介で真崎仁三郎を訪問(「『真崎甚三郎日記』にも出てきた篁白陽 - 神保町系オタオタ日記」参照)
同月25日 秦学文の紹介で満川亀太郎を訪問(「篁白陽のすめら連邦構想 - 神保町系オタオタ日記」参照)
? 初枝と離婚して、満人と一緒になり、戦時中は北京に家を持つ(「篁白陽のすめら連邦構想 - 神保町系オタオタ日記」参照)。
昭和17、18年頃 一時大阪に来住し、出雲大社教の「梅の宮教会」にいた。間もなく大陸に戻る(同上)。
終戦後 大陸に残留(同上)

 「若林不比等」でググると、トップはYourpediaの記事。中国側の文献も使って、詳細な記載があった。拙ブログも多少参考にしたなら、言及してほしいなあ。また、『月刊ムー』の不二龍彦氏による連載「日本神人伝」の「千鳥会の霊能者萩原真」(令和2年10月号)にも登場しているようだ。
 ところで、大谷著の「あとがき」によると、担当編集者の横山建城氏は本多日生の曾孫だという。若林不比等講談社の社員だったから、講談社から出るべくして出たということになるか(*_*)