中島岳志氏が『満川亀太郎日記』に驚いていた*1が、わしも同書の次の記述には、驚いた。
昭和11年1月25日 降雪にて終日家に在り、篁白陽君、秦学文君*2の紹介にて来訪
すめら連邦建設運動に就て談じること四時間に及ぶ
まさか、「篁白陽」を一次資料で確認できるとは。しかも、満川とすめら連邦建設運動について話し込んでいる。なお、巻末の「主要登場人物録」には篁をあげていない。
川上初枝(=若林初枝=内山若枝=日高みほ)とその夫について従来知られている文献をあげてみると、
三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(日猶関係研究会、昭和28年8月)は、篁白陽について、
・東大出身
・大陸に渡り、世界紅卍字会を舞台に「道慈研究所」の看板で独自の運動を展開
・日高みほの亭主だったが、離婚して満人の女と一緒になり、戦時中は北京に家を持っていた
・昭和17、18年ごろ一時大阪に来住し、出雲大社教の「梅の宮教会」にいたが、間もなく再び大陸に舞い戻り、終戦後も大陸に残留
・日高みほとは離婚後も思想的に不即不離の関係を保ち、同じ運動の線に活躍していたようである
・徹底した親猶論者だった
・日高女史は、川上初枝、篁白光ともいい、のち日高みほといった。女史のグループ「篁(たかむら)の一団」には、参議員候補で落選した日高一輝、元参謀本部の陸軍少佐西村茂、旅順工科大学出身の舟田六郎、東大出身の篁白陽、竹内重郎、二・二六事件で「今からでも遅くはない」の名文を草した大久保弘一大佐らがいた
三村は、若林不比等には、まったく言及していない。
一方、小田秀人『生命の原点に還れ』(たま出版、1985年1月)は、
・内山若枝は、満洲関東州の関子に、大正の頃から「日高見農場」と称する林檎農園を経営していた若林某の夫人
・内山女史を中心とする巴章呂の一党には、若林不比等、舟田六郎、竹内重郎、斉藤義暢(後の萩原真)、執行稲蔵らがいた
小田は、篁白陽には、まったく言及していない。
富永孝子『改訂新版大連・空白の六百日』(新評論、1999年8月)は、
・内山若枝(仮名)は明治36年長崎生。父賢三は佐賀県唐津神社宮司の三男で、16歳でウラジオストックに渡った。
・若枝は長崎高等女学校から東京女子高等師範学校に進み、首席で卒業*3
・若枝は在学中に知り合った日蓮宗若人の会員の明治大学学生昌夫(仮名)と結婚し、大連に渡った。新居は、瓦房店近くの万家嶺。そこで農園を開き三女二男をもうけた。
・若枝は大連と日本を往復しながら、禊教や言霊の研究にも熱中
・次女まき(仮名)によると、若枝は紅卍会にも身を投じ、インドや朝鮮の独立運動も助けるなどした。
・敗戦直後、夫と別れ、二人の娘とともに、大連に移住
富永が、内山若枝の夫を明治大学学生としているが、若林不比等は『明治大学一覧』で大正10年同大学商科卒と確認できる。東大卒の篁白陽と明大卒の若林不比等は当然別人と思っていたのだが、同一人物という話が出てきている。そこで、以前から青桃氏に教示されていた笹目恒雄『神仙の寵児6地恵篇(上)』(国書刊行会、1991年7月)を見ると、次のようなことが書かれていた。
・昭和8年千家尊建の紹介で、若林初枝に初めて会った。関東州の瓦房店の農場経営で成功した川上の一人娘でお茶ノ水高等師範卒。関東州の婦女道徳社を指導する存在ということだった
・昭和10年7月、奉天のヤマトホテルに千家を訪ねて、初枝と再会
・年のころはやっと三十一、二*4で、若林白陽と結婚し、三、四児の母となっていると聞いたが、声音・媚態、ともに処女のようなしぐさとは、油断のならぬ曲者とにらんでいた
・初枝は、「神様が、若林との夫婦関係を清算して、笹目とともに青海の国造りに協力せよと仰せられた」と笹目に迫った
笹目は、若林初枝の夫を「若林白陽」と記述していた。篁白陽=若林不比等の傍証というべきか。
(参考)2009年11月26日
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
早川茉莉編『玉子ふわふわ』(ちくま文庫)に村井弦斎「玉子の雪」収録。黒岩比佐子さんも喜んでいるかしら。
- 作者: 早川茉莉
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/02/08
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (20件) を見る