神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日蓮主義者若林不比等のその後と講談社

 大正8年11月妹尾義郎らと共に大日本日蓮主義青年団を創立した若林不比等という青年がいた。大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか:近代日本の思想水脈』(講談社、令和元年8月)で、久しぶりにこの不比等に再会した。

 ここで、大正十年(一九二一)八月時点での青年団の組織体制を確認しておこう。
 総裁を「釈迦牟尼世尊」、団長を「日蓮大聖人」とし、時友仙次郎(化学工場の経営者)が幹事長、妹尾、若林不比等、金島英夫、小高孝作、勝見賢乗、持徳武雄、深沢孝が常任幹事を務めた。役員はいずれも在家の若者だった。(略)

 この不比等については、海野弘氏も注目する日高みほ(=川上初枝=若林初枝=内山若枝)の最初の夫なので調べたことがある。まとめてみると、

大正8年11月 妹尾義郎らと大日本日蓮主義青年団を創立
大正9年6月 本多日生の『統一』に「雑録:霊夢」を執筆
大正10年 明治大学商科卒(本籍地:徳島県)
同年 講談社入社
同年 11月10日 『雄弁』記者として阿部次郎と会う(「講談社『雄弁』の記者・若林不比等 - 神保町系オタオタ日記」参照)。
大正12年3月頃 川上初枝と結婚(「川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの年譜 - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和8年6月 川上順三(初枝の父)没。大連から成城学園での葬儀へ来る(同上)。
同年12月20日 初江が神主、小田秀人が審神者となる神言拝受式に参加(「霊媒としての内山若枝 - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和11年1月24日 今泉定助の紹介で真崎仁三郎を訪問(「『真崎甚三郎日記』にも出てきた篁白陽 - 神保町系オタオタ日記」参照)
同月25日 秦学文の紹介で満川亀太郎を訪問(「篁白陽のすめら連邦構想 - 神保町系オタオタ日記」参照)
? 初枝と離婚して、満人と一緒になり、戦時中は北京に家を持つ(「篁白陽のすめら連邦構想 - 神保町系オタオタ日記」参照)。
昭和17、18年頃 一時大阪に来住し、出雲大社教の「梅の宮教会」にいた。間もなく大陸に戻る(同上)。
終戦後 大陸に残留(同上)

 「若林不比等」でググると、トップはYourpediaの記事。中国側の文献も使って、詳細な記載があった。拙ブログも多少参考にしたなら、言及してほしいなあ。また、『月刊ムー』の不二龍彦氏による連載「日本神人伝」の「千鳥会の霊能者萩原真」(令和2年10月号)にも登場しているようだ。
 ところで、大谷著の「あとがき」によると、担当編集者の横山建城氏は本多日生の曾孫だという。若林不比等講談社の社員だったから、講談社から出るべくして出たということになるか(*_*)