神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都新聞に川島昭夫先生の遺著『植物園の世紀』(共和国)と中島俊郎先生による寿岳文章資料調査の記事

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 京都新聞に、明日(2月2日)が川島昭夫先生の一周忌ということもあって、遺著『植物園の世紀:イギリス帝国の植物政策』(共和国)が注目を集めているとの記事(内田孝記者)が掲載された。川島先生の教え子で昨年サントリー学芸賞を受賞した志村真幸先生と若島正京大名誉教授のコメントも掲載された。私は、川島先生とは面識はなかったが、横山茂雄さんや吉永進一さんらがやっていた雑誌『ソムニウム』に川島先生や若島先生が寄稿していたし、ジョスリン・ゴドウィン『キルヒャーの世界図鑑』の翻訳を読んで、令名を存じ上げていた。平成27年10月の京大退職記念シンポジウムも拝聴させていただいた。この時、志村先生が川島先生を「毎日、ブックオフ三条店に寄っているそうです」と紹介していて笑ってしまった翌日、ある「事件」が起きた。四天王寺の古本まつりからの帰りに地下鉄四天王寺前夕陽ケ丘駅で四天王寺へ向かう川島先生とすれ違ったのである。前日に講演を聴いたばかりなので、驚いたものだ。これはTwitterでつぶやいた。
 そのツイートを見られたのか、別途拙ブログを見られたのか、吉永さんがお見舞いに行かれた際に「神保町のオタって、誰だ?」と訊かれたらしい。どう説明いただいたのか知らないが、「古本道の大家」(若島先生のコメント)に名前を知っていただいていたとは、光栄なことである。
 川島先生を最後に見かけたのは、やはり四天王寺の古本まつりであった。故黒岩比佐子さんつながりで知り合えた古本仲間の中島俊郎先生と川島先生が、百円均一台のテントで話されていた時である。確かシャーロック・ホームズの話をされていたと思う。その中島先生が寿岳文章の残した日記、書簡、書籍等段ボール箱50箱に及ぶ資料を整理・分析していて、1月23日から向日市文化資料館で展覧会が開催されるという記事(樺山聡記者)が先月21日京都新聞に掲載された。中島先生の講演も予約制で予定されている(当初の2月7日から同月28日に変更されている)。←更に3月21日(日)に変更された。
 詳しくは、「催し物案内/京都府向日市ホームページ」。寿岳については、私も「仏教者としての寿岳文章と父鈴木快音 - 神保町系オタオタ日記」や「自宅「向日庵」を図書館にしてしまった壽岳文章の読書人生 - 神保町系オタオタ日記」などで注目していたので、展示や講演が楽しみである。私の残された古本人生もあと何年あるか、川島先生や中島先生が驚くような古本を掘り出したいものだ。
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昭和7年における友清歓真とチャーチワードのムー大陸の遭遇ーー古書からたちで買った『神界の経綸と天行居の出現』からーー

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 神道天行居友清歓真がチャーチワードのムー大陸に言及していたことは、「日本における「ムー大陸」受容史 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。あらためて読むと、日本における最初のムー大陸紹介者とされる三好武二が「MU(ルビ:ミユウ),」と表記し、以後の紹介者が「ミユウ」「ミユ」「ミユー」などとしているのに対し、友清は「舞(ルビ:ム)」としているのが異質である。そのため、初出を確認してみた。古書からたちで買った『神界の経綸と天行居の出現』(神道天行居昭和8年2月)の「日乃御綱」が、初出と思われる。

 先年刊行された『霊山秘笈』を増補して重版されることになり、書名も『神界の経綸と天行居の出現』と改題されることになつた。(略)此の機会に於て思ひついたことどもを左に断片的に書き綴りて、巻末に追加したいのである。(略)
 英国人チヤーチ、ワード氏の多年の研究によると、世界文明発祥の国土は今の太平洋中にあつた(南アメリカ州位ゐの大きさ)一大国土であつて、それが約一万三千年前*1に噴火と地震との為めに六千余万の住民と共に海底に陥没して了つたものだと云ふ。それは『舞(ルビ:ム)』といふ光輝ある文化を有した国土で、印度や埃及方面の文明なるものも皆な此の『舞』の国から派生したものだといふのである。斯ういふ研究が如何なる程度まで学問的価値あるものか其れは私のあづかり知るところでないけれど、一も二もなく否定し去るわけには参るまいと思ふ。(略)私一個の考へから云へば此の『舞』といふ国の存在学説が将来一層権威を生じて来た方が、われ/\の信念を裏書するには却て有益であらうとさへ思ひ、殊に其の『舞』といふ国号の名義には多大の興味をもつものであるが、これ以上のことを書くと叱られるから此の問題はこの程度にしておく。
(略)ーー昭和七年十月、木犀の花香る頃、無方斎の北軒に於て、友清磐山しるすーー
(略)

 初出のここでは、引用文を表す『』の記載はない。『神道古義』天之巻(神道天行居昭和8年2月第1版・昭和11年5月改題改編改訂増補第2版)から『』が挿入されていた。初出時に『』がないことから、原文の正確な引用ではなく、友清による要約かもしれない。いずれにしても、友清は、三好の紹介文を見たのではなく、チャチーワードの原書か、三好以外の未知の紹介記事を見たと思われる。
 「MU」に漢字を当てた例としては、「鴎外のトンデモ、露伴の非科学(その5) - 神保町系オタオタ日記」で言及した幸田露伴の「無」の例がある。また、三好の『世界の処女地をゆく』(信正社、昭和12年6月)の「消え失せたMU(ルビ:ミユウ)大陸」*2には、「梨倶吠陀」(リグ・ヴェーダ)に関してチャチワードの「無有歌」に言及した文章の高楠順次郞による翻訳文が引用されている。この高楠の翻訳の初出は、調査中である(←追記:高楠による『梨倶吠陀』中の「無有の歌」の翻訳は、『世界聖典全集』前輯第6巻(世界聖典全集刊行会、大正10年3月)。ただし、チャチワードとこの翻訳を結びつけた部分は、三好の文章でした。「無有」と「ムー」とは、無関係。)。昭和7年の三好による紹介前後には、まだまだ未知のムー大陸関係の記事が存在するようだ。
参考:「日本におけるムー大陸受容史ーー「日本オカルティズム史講座」第4回への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:チャーチワードは、1万2千年前としている。

*2:サンデー毎日昭和7年8月特大号の「消え失せたMU(ルビ:ミユウ)太平洋上秘密の扉を開く」の増補であることは、藤野七穂氏より御教示いただいた。ありがとうございます。

ユリア・ブレニナ「日蓮主義と日本主義ーー田中智学における「日本による世界統一」というビジョンをめぐってーー」を読んで

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 今日は、午後から「「仏教と近代」研究会 合評会「『近代の仏教思想と日本主義』」を拝聴。熱のこもった議論や吉永さんのツッコミもあり、楽しめました。さて、同書(法藏館)については、
『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)の栗田英彦「日本主義の主体性と抗争ーー原理日本社・京都学派・日本神話派ーー」への補足 - 神保町系オタオタ日記」や
『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)中の名和達宣論文を読んでーー仏教関係者の公職追放についてーー - 神保町系オタオタ日記
で話題にしたところである。今回は、ユリア・ブレニナ論文を取り上げてみよう。田中智学の日蓮主義の背後に偽史的要素もあると分かり、非常に面白かった。そのうち日持伝説を話題にしよう*1。日持(1250-?)は、日蓮の6人の高弟の1人で海外布教のため出発したが、消息不明に。しかし、蝦夷地で布教したという説から、ひいては朝鮮、更に中国、シベリアへとその痕跡が「発見」されていったようだ。先行研究の1つとして挙げられている井澗裕「日持上人の樺太布教説をめぐってーー帝国日本における北進論の特質と影響(一)」『境界研究』6号,平成28年はネットに挙がっているので、読んでみた。これまた驚いた。日持伝説は、小谷部全一郎の「義経=成吉思汗説」にも利用されていたのである。井澗論文は小谷部の『成吉思汗は源義経也』(冨山房大正13年11月)と『義経満洲』(厚生閣書店、昭和10年3月)の例を挙げているが、手持ちの『成吉思汗は源義経也:著述の動機と再論』(冨山房大正14年10月)80頁から引用しておこう。

(略)又樺太を経て彼岸の大陸に渡りたるは、古より蝦夷人が往来せる足跡を辿りたるものにて、之は独り義経のみならず、日蓮六高僧の一人、日持上人も、身延より秋田の海岸に至らず、順路を踏んで陸奥に入り、津軽三厩より蝦夷に渡り、更に樺太より対岸の黒龍江を溯航し満蒙の地に入りしことは、遺蹟に徴して昭々たり。

 日持伝説を「義経=成吉思汗説」の傍証に使っているね。あと、小谷部は、『成吉思汗は源義経也』171頁で「余は帰朝後是等の事蹟を日蓮宗碩学某に語り、其の意見を求めた」と書いているが、この「日蓮宗碩学某」が誰なのか気になるところである。

近代の仏教思想と日本主義

近代の仏教思想と日本主義

  • 発売日: 2020/09/28
  • メディア: 単行本

*1:他には、インドの最高貴族の一団が日本に渡り、天皇家になったという説など。

フランス極東学院長クロード・メートルも読んでいた井上円了:一栄堂書店で見つけた井上玄一『哲学堂随想』から

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 神戸古書倶楽部には、何年も行っていない。入ってすぐ左手に一栄堂書店が出店していたと思う。今は、そこにハモニカブックスが入っているのかな。一栄堂で井上玄一『哲想堂随想』(哲学堂宣揚会、昭和26年12月)を見つけた時は、ビックリ。謄写版、25頁で100円。東洋大学附属図書館にも無いようだ。目次を挙げておく。
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 玄一は、哲学堂の創設者井上円了の長男である。三浦節夫『井上円了:日本近代の先駆者の生涯と思想』(教育評論社平成28年2月)によると、長男の玄一は明治20年9月生まれ、昭和47年12月没。大正2年東京帝国大学法学部卒*1三井銀行を経て、昭和9年から財団法人三井報恩会参事兼文化事業部長に就任し、戦後も役員を継続した。
 入手した玄一著に面白い記述がある。大正5年玄一がフランス領東京(トンキン)へ遊びに行った時の話である。

 ある日、東京の首都河内(ルビ:アノイ)の極東文化学院を訪ね、その院長である年とったフランスの学者にあいました。その院長である年とったフランスの学者にあいました。その人は書庫から井上円了著の外道哲学を出して来られ、これは良い本であると推賞されました。このフランス人はまだ日本へ来たこともないのに私も及ばない程正確な日本語を話し、それよりも驚いたのは外道哲学の漢訳の部分を日本流の漢文読みしたことです。(略)

 この院長は、ネットで読めるクリストフ・マルケ「雑誌『Japan et Extrême-Orient/日本と極東』と1920年代フランスにおける日本学の萌芽」『日仏文化』83号,平成26年1月を見ると、クロード・メートルである。玄一は「このフランス人はまだ日本へ来たこともない」と書いているが、実際は何度も来日経験があったようだ。それにしてもメートル院長が円了の『外道哲学』(哲学館、明治30年2月)を読んでいて、内容も理解していたとは凄い話だ。
参考:円了の娘が岸田劉生の日記に出てくることは、「井上円了に美人の娘あり - 神保町系オタオタ日記」参照。三浦著によると、長女滋野(明治23-昭和29)と次女澄江(明治32-昭和50)がいた。
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*1:正確には、大正2年7月東京帝国大学法科大学経済学科卒。同期に大内兵衛三島弥彦など。

「日本人=バビロン起源説」を提唱した原田敬吾のバビロン学会と無教会主義の塚本虎二

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 戦前の各種団体の名簿を斜め読みするのが好きで、思わぬ人の名前を発見するのが楽しみである。1度見た名簿でもある程度時間を置いて再度見ると、以前はまだ知識のない人物だったため気付かなかった人名を発見することがある。今回、前島礼子「原田敬吾の「日本人=バビロン起源説」とバビロン学会」『小澤実編『近代日本の偽史言説:歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー』勉誠出版,平成29年11月掲載の「バビロン学会会員名簿」をあらためて見てたら、驚いた。行政官塚本虎二の名前があった。
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 一昨年のワークショップ「余白の宗教雑誌:宗教と宗教ならざるものの間」で赤江達也先生の「無教会と個人雑誌の複層ーー塚本虎二『聖書知識』とその周辺」を聴いて、塚本の名前を覚えたのであった。そのおかげで、今回「バビロン学会会員名簿」に塚本の名前を発見できた。塚本は、明治40年7月第一高等学校大学予科(独法科志望)卒、同期に同じく名簿に名前のある田中信良がいる。44年7月東京帝国大学法科大学法律学科(独逸法兼修)卒。同期に田中のほか、重光葵正力松太郎田中千代松、三宅正太郎らがいる。名簿は、大正6年7月に弁護士の原田敬吾が創立したバビロン学会の機関誌『バビロン』掲載で、塚本や田中の名前が載った2号は同年12月発行である。当時、塚本は農商務省大臣官房会計課参事官、田中は鉄道院中部鉄道管理局副参事であった。赤江『「紙上の教会」と日本近代:無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、平成25年6月)によると、塚本は内村鑑三の学生グループ「柏会」に参加し、大正8年農商務省を退職した後、父親*1の経済的援助でドイツ留学の準備を進めていたが、大震災で妻を亡くし、留学を取り止め、内村の助手になったという。一時期は「日本人=バビロン起源説」に接したが、深入りはしなかったのだろう。吉永さんのいう「こっちの世界」から「あっちの世界」に半歩踏み出したが、引き返して別の世界へ向かったというところだろうか。
参考:ネットで読める森征一「弁護士 原田敬吾とバビロン学会の設立」『近代日本研究』4号,昭和62年及び佐藤進「バビロン学会と古代学研究所ーー日本における古代オリエント学研究の黎明」『立正大学人文科学研究所年報別冊』10号,平成8年3月

*1:父親の塚本兎三郎は、弁護士である。

大正期に哲学堂を散歩して井上円了博士に出会う秋田雨雀

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 『秋田雨雀日記』の特に大正期が面白い。著名な小説家、詩人、画家、劇団員は勿論、エスペランティストアナキスト、宗教家、オカルティスト、求道者、奇人・変人など何でも登場する。妖怪博士の井上円了も出てくるのである。たとえば、第1巻(未来社、昭和40年3月)。

(大正四年)
 九月二十二日
 きょうは小説着想の目的で哲学堂へゆく。井上博士がいた。しばらくぶりでいったので、いい気持だった。裸体でエスペラントのけいこをした。(略)
(大正五年)
 六月三日
 ひる、哲学堂へゆく。(略)だいぶ人がいっていた。(略)
(大正八年)
 四月九日
 (略)あまりにいい天気なので、午後から哲学堂へゆく。風がなまあたたかく、野の地蔵尊や石仏を写生して歩いた。哲学堂で草のうえに寝ていた。いい気持ち。(略)
(戯曲「乞食の出産」着想。)
 五月二十五日
 (略)佐藤君と白鳥君が迎いにきたので、目白駅で、秋庭君、花柳君、若花君なぞといっしょになり、哲学堂へいった。蓮尾君とその友人が喜んで歓迎し、ごちそうしてくれた。いい心持に汗ばんだ。それから図書館の屋根や六賢堂*1に登り、物の字の池の草の上で日光にあたったり、話しをしたりして、讃迎軒*2に入り、会食し(略)

 「井上博士」は、断定はできないが、場所柄から井上円了と考えておこう。秋田は、小説や戯曲の着想を得ようと、哲学堂へ出かけていたようだ。そこで哲学堂の設立者である円了に出会えるとは、ついてる。
参考:哲学堂の沿革については、ネットで読める東海林克彦「哲学堂公園に関する造園学的考察」『観光学研究』13号,平成26年3月参照

*1:正しくは、六賢台

*2:正しくは、鑚仰軒

日本におけるムー大陸受容史ーー「日本オカルティズム史講座」第4回への補足ーー

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 「日本オカルティズム史講座」第4回の吉永進一「日本のピラミッドと超古代の夢:1930年代」を拝聴。戦前のトンデモない人物はたいてい知っていると自負していたが、未知の怪しい人達が大分出てきたので驚いた。それでも、最も驚いたのは三浦関造の上海での活動の一端がわかる史料であった。
 さて、わしの専門分野(?)について、取りあえず補足しておこう。
・「日本におけるムー大陸受容史」・・・藤野七穂偽史と野望の陥没大陸ーー”ムー大陸“の伝播と日本的受容ーー」『歴史を変えた偽書:大事件に影響を与えた裏文書たち』(ジャパン・ミックス、平成8年6月)に詳しい。ただし、三好武二*1による日本最初の紹介と続く事例とする出口王仁三郎・木村錦洲・酒井勝軍・山根菊子までの間に幾つか抜けているので、これに加えた上で年表にしておこう。

昭和6年 チャーチワード『失われたムー大陸』の原書刊行
昭和7月8月7日 三好武二「失はれたMU(ルビ:ミユウ)太平洋上秘密の扉を開く」『サンデー毎日
昭和7年10月 友清歓真「日乃御鋼」中に「『舞(ルビ:ム)』トイフ光輝アル文化」(「日本における「ムー大陸」受容史 - 神保町系オタオタ日記」参照)
同年10月2日 三好武二「歴史の撹乱者MU MUの面影」『サンデー毎日
同年12月 荒深道斉*2『挙て磨け八咫鏡』(純正真道研究会本部)中に三好の記事への言及(末尾の写真と「契丹古伝と竹内文献を繋ぐムー大陸幻想ーー「言説のキャッチボール」で拡大する偽史大系ーー - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和8年10月 有賀成可「後にしるす」浜名寛祐『上古に於ける我が祖語の本地及垂迹』(東大古族学会)中に「ミユーの東漸文化」(「契丹古伝と竹内文献を繋ぐムー大陸幻想ーー「言説のキャッチボール」で拡大する偽史大系ーー - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和9年5月 木村錦洲『大日本神皇記』(皇国日報社)中に「ミユー大陸の陥没」
同年7月 沢田健『三種之神宝の略説と謹解』(曲肱堂)中に「ミユウ国」(「中山忠直と竹内文献 - 神保町系オタオタ日記」参照)
昭和10年3月 出口王仁三郎『玉鏡』(天声社)中に「去る頃の大阪毎日新聞に、イギリス人チヤーチ・ワード氏の長年の研究によつて最近驚くべき太平洋秘密が白日にさらけ出された」
同年11月 酒井勝軍『神代秘史』第3巻(国教宣明団)中に「ミウ国」
昭和12年10月 山根菊子『光りは東方より』(日本と世界社)中に「ミユ人」
(この他の動向は、藤野著を見よ)

・「灯台社」関係・・・これは山口瑞穂先生の御専門だが、補足しておこう。『特高月報』(昭和18年10月分)に明石順三の公判廷に於ける「不逞供述」が載っていて、八咫の鏡の裏にヘブライ文字が書いてあり、かかる鏡を持っていた者は猶太の娼婦で、ローマの迫害に堪えかねて極東に流浪し、日本を始めたと思われると供述したらしい。この日猶同祖論はある程度は小谷部全一郎の影響だろうが、小谷部は「娼婦」とは言っていない。その小谷部が晩年竹内文献接触していたことは、「大川周明とトンデモ本の世界(その3) - 神保町系オタオタ日記」参照。
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*1:経歴は、「50年後の太平洋と1万2千年前のムー大陸を夢見た三好武二 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:最近気付いたが、「道斎」ではなく「道斉」