神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東伏見邦英(久邇宮邦彦王第3王子)旧蔵の高島米峰『信ずる力』(丙午出版社)

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9月の「京都まちなか古本市」では、当初参加予定になかった書林かみかわが急遽参加ということで、突撃。かみかわの棚には500円均一で仏教書等が出ていた。高島米峰や高楠順次郞からの献呈本が何冊か出ていたので、そのうち高島『信ずる力』(丙午出版社、昭和11年10月)を購入。蔵書印が押してあってさっぱり読めなかったが、twitterに挙げたら蔵書印様に読んでいただき、「邦英蔵書」と判明。検索すると、仏教関係では久邇宮邦彦王の第3王子で臣籍降下した東伏見邦英(戦後は青蓮院門跡の門主として東伏見慈洽)がヒット。香淳皇后(昭和天皇の皇后)の弟に当たる。詳しくは、ウィキペディアを見られたい。「邦英蔵書」印だけでは同定できないが、目次を見ると、冒頭に「故元帥久邇宮邦彦王殿下を悼み奉る」が載っているではないか。なるほど、高島が邦彦王の第3王子だった邦英へ献呈するわけだ。
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邦英は平成26年1月逝去。旧蔵書が京都の市会に出たのだろうか。元皇族なので日記や宛書簡があったら、凄い内容だろう。なお、邦英は例の『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』*1にも登場している(*_*)
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高山樗牛ゆかりの龍華寺で近代仏教史講演会「仏教と学知」

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鈴木繁三『わが郷土清水』(昭和37年5月初版・54年8月7版)という戸田書店が発行した本がある。「はしがき」に「中学生でも楽に読める程度」とあるが、私は小学生の時に初めて読んだと思う。ボロボロになるまで読んだが、今手元にあるのは綺麗な本である。昭和54年の重版だから、大学生か社会人になってから懐かしさに再び買ったのだろう。発行した思い出の駅前銀座の戸田書店静岡市に本店を作り、清水の本店は閉めてしまった。そもそも清水市自体が静岡市と合併して、独立の市ではなくなった。合併して良かったのか、悪かったのかは、とっくに清水の住民でなくなった私には分からない……
さて、同書は清水の美しい2つの庭園を紹介している。1つは清見寺、もう1つは龍華寺である。龍華寺は日蓮宗の寺で、庭園は日本平から駿河湾を隔てて富士山を望む天下の絶景を縮図したもの。ソテツは1100年以上を経た最古最大のもので、天然記念物だという。また、高山樗牛の胸像と「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」の墓石が置かれているとある*1。中学生の時、自転車で清水の名所旧跡を廻ったことがあって、龍華寺のソテツは覚えているが、樗牛には興味が無かったのか像や墓の記憶はない。
最近『萬象録 高橋箒庵日記』巻5(思文閣出版、昭和63年10月)を読んだが、そこにも龍華寺が出てきた。

(大正六年)
一月九日
(略)山岡鉄舟建立の鉄舟寺あり、其門前より左折して二、三丁行きたる右手に同じく高丘に倚りて建ちたるは即ち龍華寺にて、老松二本門内に聳え最も景勝の地を占めたる寺院なり。石段を登りて本堂の庭に出づれば有名なる蘇鉄あり、一本の幹に五十八枝ありて広袤十八間を蔽ひ全国無比の大樹なりと云ふ、此他に大蘇鉄数株あり、又覇王樹の大なる者をも見受けしが、当地は気候温暖にして斯かる植物に適応する処なりと云ふ。扨て此庭前より富士を見るは他に比類なき壮観なりとは予て評判に聞き居りしが、右に三保の松原、左に清見寺を控へ、海原と松原を越して清水港の正面に富士山を望むの光景真に絶勝と云ふべし。(略)

この高山樗牛縁の龍華寺で今月21日(土)13時~16時にイベントがあるようだ。

近代仏教史講演会「仏教と学知」

碧海寿広(武蔵野大学准教授)「日本の仏教と科学」
大谷栄一(佛教大学教授)「『日蓮研究は愉快なる一事業にこれあり候』ーー高山樗牛日蓮主義ーー」
司会 大澤絢子(大谷大学真宗総合研究所PD)

偶然かどうか3人とも最近単著を出されている。碧海先生の本は持っているので、写真をあげた。地元の人はもちろん、東京からでも2時間半ぐらいかな、観光がてら皆様行ってみましょう。info※ryugeji.jp(※を@に)まで事前連絡を。

日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈

日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈

親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか (筑摩選書)

親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか (筑摩選書)

*1:『わが郷土清水』では、なぜか清見寺としている。

大正6年慶應義塾図書館の閲覧室で開かれた福澤先生十七年忌晩餐会

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福澤諭吉明治34年2月3日逝去。今なお慶應の塾生・塾員(卒業生)から福澤先生と呼ばれているようだ。「日本の古本屋メルマガ」で「『図書館絵葉書』を発見した人」として紹介された書物蔵氏も慶應文学部卒で塾員である。その書物蔵氏は、大学図書館で学生嘱託として働いたことがあったという。
さて、明治45年に慶應義塾創立五十周年記念図書館として建てられた図書館旧館は、改修工事を経て、来年夏「塾史展示室(仮称)」となるらしい。塾員高橋義雄の日記『萬象録 高橋箒庵日記』巻5(思文閣出版、昭和63年10月)によると、ここで福澤の17回忌晩餐会が開催された。

(大正六年)
二月三日 土曜日 (略)
[福澤先生十七年忌晩餐会]
午後五時、福澤一太郎氏の招待に応じて、慶應義塾図書館に開かれたる福澤先生十七年回忌晩餐会に参列す。当日来客百人前後なるを以て図書館の読書室を食堂と為し、デスクを以て食卓に代用したるは名案と云ふべし。余は図書館建設後今夜初めて内部に入りしが、ホールに小幡篤次郎、門野幾之進両氏の胸像を備付けあり、小幡氏の方は格別見苦しき程にも非ざりしが、門野氏の方は余りに形似を求め過ぎて容貌の欠点のみを誇張し其陰鬱なる悪相、人をして不快の感を生ぜしむ。斯かる胸像を永世に遺されたる門野氏こそ実に気の毒と云ふべけれ。日本の未熟なる彫刻家に胸像を頼みて斯かる失態を生ずるは大に注意すべき事共なり。

[ ]内は、原本欄外にある見出しを校訂者が本文に付したもの

ネットで読める『慶應義塾図書館史』によると、大閲覧室は2階にあり、閲覧者150人用であった。なるほど、100人規模の晩餐会にはうってつけだったわけだ。また、玄関広間に義塾功労者として大正4年から6年にかけて、小幡、門野、鎌田栄吉の大理石像が北村四海の手で作られたという。なお、同図書館史は「シュメールにハマッタ慶應義塾図書館員 - 神保町系オタオタ日記」、「慶應義塾図書館のトンデモ図書館員井上芳郎と柳田國男 - 神保町系オタオタ日記」や「慶應義塾の“図書館内乱” - 神保町系オタオタ日記」で見たように、ユニークな図書館史である。

柳田読みの柳田知らずーー『柳田國男全集』第34巻中「旅の文反故」解題への補足ーー

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柳田國男全集』34巻(筑摩書房平成26年3月)に「旅の文反故」が収録された。三村清三郎が写しを所蔵する*1「姉上様」宛の柳田の書簡を胡桃沢友男(胡桃沢勘内の長男)が『信濃』30巻1号(信濃史学会、昭和53年1月)に発表したもの*2を収録している。解題を担当した小田富英氏は、「姉上様」を柳田の妻孝の妹(矢田部)順か(木越)貞とし、書簡中に旅先で詠んだ歌が書き込まれていることからも、歌の師松浦萩坪門下で同門の順の可能性が高いとしている。順とする説は胡桃沢や岩本由輝氏も採った説である。元々この書簡は三村が『旅と伝説』昭和5年9月号の寄稿で公表しようしたが、柳田に問い合わせると自分が明治34年信州旅行に際して「あによめ」に送ったものであることを認め、「どこから此の文反故を見付けたか」と不思議がり、掲載を拒否したため没になったものだという。実はこの書簡の出所は、小田氏が同巻で解題を書いた「大正七年日記」に出ている。民俗学者は柳田の『炭焼日記』は読んでいるだろうが、断片的な日記は重視しないのだろうか。

九月二十二日 (日) 朝雨、冷なり
(略)
△木越宛の古手紙文行堂の店に出て居るとて井上から報知あり
(略)
九月二十八日(土)
(略)
△木越氏来訪、此官舎へは始めてか。先月の手紙のことをいふ 屑屋へうつたものゝ中にまぎれてゐたとのこと
(略)

これだけだと木越貞宛書簡が流出したとは断定できないが、まさしく三村の日記大正7年9月21日の条に記載があった。『演劇研究』24号(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、平成13年3月)で、既に「柳田國男の幻の妻 −木越安綱夫人貞− - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。三村の日記はどこまでが伝聞なのか分かりにくく、かつて私も誤読してしまったが、要約すると三村が骨董屋の柳田(柳田國男と紛らわしい)から「木越安綱夫人貞子宛」手紙を入手し、内田魯庵に見せたことが記されている。発信者は判然としないが、柳田國男又は夫の木越安綱と思われる。ただ、魯庵は「木越か最愛なる貞子と書いてあるつて」と発言しているが、そのような文言は胡桃沢が公表した書簡中にない。三村が入手したのは骨董屋の柳田からで、柳田の日記には文行堂に出たとあるので、屑屋からあちこちへ出回った複数の書簡があるのだろう。貞宛書簡とは別に順宛の書簡が流出し、三村がその写しを入手する可能性もゼロではないが、「旅の文反故」は貞宛と同定してよいだろう。
この三村の日記は、掲載誌が『演劇研究』なので演劇研究者以外にはあまり読まれていないと思うが、民俗学者近代文学研究者は機会があれば読んだ方がよいだろう。何か発見できるかもしれない。蒐集家や蔵書印ネタもあったと思う。近代仏教研究者には関係なさそうかと思いきや、「催眠術師が多すぎる! - 神保町系オタオタ日記」、「催眠術師赤塩精と福来友吉 - 神保町系オタオタ日記」や「朝日新聞記者西村真次を訴えた催眠術師 - 神保町系オタオタ日記」で見たように催眠術師に関する記事が出てきたりするので、油断はできない。私も一時期この日記にハマっていたが、ここ数年は読んでいない。未読分を読んだら、また大発見ができるかもしれない。

*1:三村は「或る人の持てる文反故なり」とコメントしているので、原本は第三者が所持しているようだ。

*2:柳田國男と信州』(岩田書院、平成16年5月)に再録

向日庵(こうじつあん)公開研究会「寿岳文章一家 その人と仕事を追う」

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向日市立図書館・向日市文化資料館開館35周年記念特別展として、12月1日まで「昭和モダンと向日町」が開催された。向日町に暮らしたり、縁があった昭和の文化人(笹部新太郎、河合卯之助、寿岳文章・しづ、渡邊武)の活動や戦前にあった向日町劇場にスポットを当てた展覧会。30周年の時も類似の展覧会があったようで、その時の図録(高木博志先生の寄稿あり)が配布された。大評判の『昭和前期蒐書家リスト』を見ると、前記5名のうち寿岳文章は出典に使った6冊の名簿のうち3冊に登場していることが分かる。他の4名は残念ながら載っていない。
さて、今週14日(土)長岡京市中央生涯学習センターでNPO法人向日庵の公開研究会「寿岳文章一家 その人と仕事を追う」が開催されるようだ。内容は、

寿岳文章と向日庵本」 長野裕子(NPO法人向日庵理事)
関西学院の英語教育と研究ーー寿岳文章をめぐる人びとーー」 井上琢智(関西学院大学学院史編纂室研究員)

私は過去2回研究会を聴いたことがある。1,000円かかるが久しぶりに聴きに行こうかなあ。
参考:「壽岳文章邸「向日庵」を設計した澤島英太郎の生没年 - 神保町系オタオタ日記」、「古書クロックワークから壽岳文章「随想『手紙』」掲載の『文学会報』2号(関西学院大学文学会)を - 神保町系オタオタ日記」、「壽岳文章にとっての瞼の詩人エドモンド・ブランデン - 神保町系オタオタ日記

裏表紙の社章から見た金港堂と博文館

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「蔵書印/出版広告」さん(@NIJL_collectors)がtwitterでやってくれました。博文館の出版物における裏表紙に印刷された社章の変遷。私も「戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学 - 神保町系オタオタ日記」で2種類紹介したが、10種類ほどもあるようだ。ここまで多いと社章なのかということになり、蔵書印さんはむしろ商標かとの疑問を呈している。
変遷を重ねた博文館の「社章」に比べて、金港堂の社章は変化が見られない。先月の大阪古書会館で厚生書店から300円で入手した高瀬花陵『自然の子』(金港堂、明治36年3月)。表紙が破れているし、タイトルがパッとしないので見逃すところだったが、念のため調べると・・・
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口絵が鏑木清方のようだし、金港堂の発行で裏表紙に社章があったので、よっしゃと購入。稲岡勝先生のゲスナー賞受賞作『明治出版史上の金港堂』(皓星社)の帯・カバーの折り返しにも印刷されている金港堂の社章である。二葉亭四迷『新編浮雲』1篇(金港堂、明治20年6月)にも使われたものだ。『自然の子』の例により、金港堂の場合は明治30年代半ばでも同じ社章が使われていたことが分かった。なお、同書の所蔵は秋田県立図書館ぐらいか。
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金港堂の社章は店主原亮三郎のイニシャルであるHとRを組み合わせたもので、博文館の社章のうち鳥を使ったものは社名が書かれたリボンに鳥が囲まれたものである。後者に似た社章を最近発見したので参考までに紹介しておこう。三密堂書店の100円均一台で見つけた佐々木亨編『佛教新演説』(明昇堂、明治24年7月)の裏表紙である。博文館の社章(右側)と一緒に写真を挙げておく。動物と社名の書かれたリボンの組み合わせ。どこが最初に始めたのか、洋書に類例があるのか、裏表紙の社章は奥深い世界である。
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大正4年における富士屋ホテル文庫の蔵書

名著永嶺重敏『<読書国民>の誕生 明治30年代の活字メディアと読書文化』(日本エディタースクール出版部)が刊行されて15年。そろそろ文庫化してほしいものである。出すならちくま学芸文庫講談社学術文庫か。解説はドカーンと書物蔵氏を抜擢してほしいなあ(*_*)
わしも永嶺氏に負けじと、列車文庫や船中読書について、「明治45年新橋発特急備え付けの列車文庫 - 神保町系オタオタ日記」や「船内で独歩全集を読む大川周明 - 神保町系オタオタ日記」を書いたことがある。今回は永嶺氏の言う「ホテル図書室」ネタを。
『萬象録 高橋箒庵日記』巻3(思文閣出版、昭和62年6月)によると、

(大正四年)
八月一日 日曜日
(略)
夕刻、富士屋ホテルに赴きて晩餐す、富士屋ホテル内には西洋人が読み了りて捨て置き行く小説其他の書物を保存し、書籍室にて滞在者の縦覧に供し居る由なれば、箒文社出版東都茶会記第一輯第二輯、我楽多籠、実業懺悔、井伊大老茶道談を右ホテル文庫に寄附せり。

今も箱根にある富士屋ホテルだね。客は外国人が多く、日本人でも上流の人に限られるだろう。挙がっている書名はすべて箒文社の発行で、中村勝麻呂編の『井伊大老茶道談』を除き、高橋の著書である。大正4年富士屋ホテルの書籍室にあった日本語の本の書名が数点とはいえ確認できた。ホテル図書室は蔵書目録が作られないだろうし、本の入れ替わりも激しそうだから、一部であっても蔵書の記録は珍しいだろう。