神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

古書クロックワークから壽岳文章「随想『手紙』」掲載の『文学会報』2号(関西学院大学文学会)を

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本日が初日の四天王寺秋の大古本祭りへ。例年初日が天神さんの古本まつりと重なり、ハシゴする古本者は大忙しだったが、今年は1週間ずれたので楽になった。さて、レコードに群がるファンが多い古書クロックワークに色々面白い雑誌が出ていた。そのうち『文学会報』2号(関西学院大学文学会、昭和24年11月)を紹介しよう。創刊は、同年6月。関学図書館にもないようだ。目次も写真を挙げておく。
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壽岳文章「随想『手紙』」が載っているので、買ってみた。内容は、毎日何通となく手紙が届くと始まり、イギリスやアメリカには故人の手紙を集めた書物が多数あることを紹介。欧米に比べて、日本に手紙文学が発達しなかった原因として、
・平安期に日記文学は栄えたが、手紙は歌によるのが本体で、散文の方は寧ろ詞がきにとどまってしまったこと。
・何々往来と称する書簡のフォルムが夥しくできて、鎌倉以来、社会の各層の書簡形式が固定し、著しく個性が束縛をうけたこと。
の2つを挙げている。このため、庶民文学が発達した江戸期でも、文学としての実際の手紙には見るべき物が少なく、僅かに西鶴などが意識的な創作を行っている程度だという。最後は次のような一節である。

(略)チャールズ・ラムがコウルリッヂやハズリットやウァーヅワスやマニングなどの友人に送つた本当の手紙は、いつ読んでみてもあきがこない。作りものか本ものかは、手紙の場合最も敏感に知得される。私がよりわけて残してゐる手紙はもとより本ものである。すればいつの日か世にでて、発信者を手紙文学の座に据ゑないとも限るまい。さう考へて、今日も私は二通の手紙を箱の中へよりわけた。(一九四九、九、二六日)

先日中島先生からいただいた『向日庵』2(向日庵、平成31年2月)所収の新村恭「寿岳文章の生きた軌跡と新村出」は壽岳と新村出の交流を辿ったものだが、新村出記念財団重山文庫には、両者の往復書簡が629通+α*1あり、ホームページで書簡の日付、葉書・封書の別のリストを見られるという。なるほど、確かに「新村出記念財団 重山文庫 | しんむら いづる 記念財団 ちょうざん 文庫」中「重山文庫だより」の「新村出と寿岳家の人びととの間の書簡」に出ていた。新村から寿岳文章宛は昭和2年4月以降423通、寿岳文章・静子宛は10年4月以降39通存在していた。壽岳が「箱の中へよりわけ」て残した新村からの書簡が、重山文庫に収まったのだろう。

*1:プラスαは、日記の間や、研究ノートの間、本の間などにはさんであるものがあるため