神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明石順三による灯台社の機関紙『黄金時代』(後『なぐさめ』)の発行部数

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今月7日(土)の人文研ワークショップ「キリスト教系「新宗教」研究の新展開」で山口瑞穂「明石順三と灯台社ーー外来のキリスト教新宗教における文書伝道と「翻訳」ーー」があるので、予習(?)で稲垣真美『兵役を拒否した日本人ーー灯台社の戦時下抵抗ーー』(岩波新書、平成5年1月10刷*1)を積ん読本から掘り出して読んでみた。一時期岩波新書岩波文庫の復刊で多少なりとも興味を引くものは買い込んでいたが、本書もその1冊だろう。憲法の講義で良心的兵役拒否について習った気がするが、戦前灯台社というキリスト教系の団体の信者(「エホバの証者」という)3人が支給された銃を返納し、軍事教練を拒否するなどした事件について詳しく書かれている。
本書58頁に機関紙『黄金時代』(改題後『なぐさめ』)の発行部数が出てきた。

その印刷発行部数も、一九三三年の弾圧後一、二年のうちに『黄金時代』毎月十万部、伝導[ママ]者用回覧誌『ワッチタワー』(旧名『光』)二百五十部、単行本・小冊子五千部など一ヵ月合計十万五千部に上り、一九三八年一月から『黄金時代』を改題した『なぐさめ』も、一年間に百十二万五八一七部を印刷している。(注、以上の機関紙・単行本・小冊子は一九三九年六月の第二次弾圧で全部発禁・押収・棄却の処分を受けた)

ここで秘密兵器、小林昌樹編・解説『雑誌新聞発行部数事典』(金沢文圃閣)に登場してもらおう。『黄金時代』109号,昭和12年2月は39000部、110号,同年3月は30000部とあり、部数が100000部から激減していることがうかがえる。また、『なぐさめ』24号,昭和13年5月は17883部で、更に激減したことも分かる。
稲垣著には配布の方法として、街頭配布やダイレクトメール方式のほか戸別訪問による配布を挙げているが、吉野作造の日記(『吉野作造選集』15巻)にも出てきたので紹介しておこう。

(昭和七年)
四月二九日 金曜
(略)夜接客(略)福富女史(「エホバの証者」といふ肩書あり 燈台社とやらの用命で宗教書を売りに来たものらしい いゝ加減問答してゐる中に並べた本をしまつて帰る 見てくれとは云つたが買つてくれとはいはなかつた)(略)

灯台社はこの翌年5月に一斉検挙を受け、文書伝道者百余名が検束されたので、福富女史も検束されたかもしれない。

*1:あとがきの後に、[第九刷刊行に当り]として善通寺の連隊で抵抗した三浦忠治の生涯について補筆した旨、[第十刷復刊に当り]として陸軍工科学校淵野辺分校などで抵抗した村本一生が昭和60年1月に死去した旨が追記されている。

澁川驍の詳細年譜・著作目録が索引付きで刊行されていた

図書館で山﨑柄根編著『昭和の作家澁川驍 年譜・著作目録』(研成社、令和元年8月)を発見。偶然にも同日書物蔵氏も書店で見つけたらしい。戦前は帝国大学新聞社や東京帝国大学図書館、戦後は国会図書館等に勤めた澁川。拙ブログでも話題にしたことがある人物である。編者の山﨑氏は澁川の次男で、『鹿野忠雄 台湾に魅せられたナチュラリスト』(平凡社、平成4年)の著書がある。伝記好きのわしはこの本持ってるよ。
年譜は相当詳細なものだが、澁川も編集に参加した『高見順全集』中の日記は使ってないようで、「東京帝国大学附属図書館司書渋川驍 - 神保町系オタオタ日記」、「渋川驍が東大図書館を辞めた理由 - 神保町系オタオタ日記」などで言及した澁川の言動は記載されていない。その点は物足りない。本書に年譜と著作目録への索引が付いているのは、画期的。年譜や著作目録の索引なんて、まず見たことがない。索引に「大手拓次」が出てきて、『讀書春秋』昭和26年12月号に大手『詩日記』の新刊紹介を書いていたことが分かる。

昭和の作家 澁川驍 年譜・著作目録

昭和の作家 澁川驍 年譜・著作目録

  • 作者:山〓 柄根
  • 出版社/メーカー: 研成社
  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: 単行本

吉野作造の旧友としての真山青果ーー野村喬『評傳眞山靑果』への補足ーー

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真山青果とは何者か?』(星槎グループ発行、文学通信発売)中、青木稔弥「青果の多彩なる人脈」は、青果の演劇作家、江戸文学研究者の側面に関わる人脈について、的確にまとめたものである。しかし、仙台出身者としての側面については、紙数の関係で略されている。青果は明治25年宮城県尋常中学校に入学しているが、同級に吉野作造がいた。青果と吉野はその後別々の道を歩むことになるが、野村喬『評傳眞山靑果』(リブロポート、平成6年10月)の年譜には、大正10年頃から旧友吉野との交際復活とある。だが、調べてみるともう少し遡るようだ。
中央公論社の編集者木佐木勝の日記『木佐木日記』上巻(中央公論新社平成28年11月)の、

(大正九年)
六月十二日 
今日、二時過ぎから吉野(作造)さんの談話筆記が麻田*1邸であり、そのあとで、樗陰氏は「これから吉野さんを『鉢の木』へ案内するから君もいっしょに来給え」というので、高野氏はいなかったから自分だけ樗陰氏について行くことにした。
(略)
席上でいろいろ話が出たとき、吉野さんが真山青果氏をよく知っていることや(真山氏は吉野さんと同郷の仙台人だそうである)、なかなかの芝居好きであることを知って興味があった。こないだうちから問題になっていた中村吉蔵の「井伊大老の死」の上演中止問題をめぐって、吉野さんが真山青果氏から頼まれてあっせん役を買って出たというような話も出た。
(略)吉野さんは松竹に関係のある真山青果氏から相談を受けて、こんどの上演中止の真相を尋ね、警視庁などの意向も調べたりして、中間で上演できるようにあっせんの労をとったらしいことがその話でわかった。(略)

大正9年には交際は復活していたようだ。この時期の吉野の日記は『吉野作造選集』14巻(岩波書店、平成8年5月)でも欠けているが、前後の時期を見ると、

(大正八年)
七月二十三日 水曜
(略)
夕方より明治座を見る 真山青果君の「一本杉」の連中に富塚君より誘はれたるを以てなり 三幕ばかり観て帰る
(大正十一年)
三月二十四日 金曜
(略)
二十三日は(略)
午後から夕方にかけて鬼子母神の開泉閣にゆく 真山君の肝入にて同君家族と茂木博士の家族と私の方と三家族懇親の宴会を開ける也 興趣尽きず
九月二九日 金曜
(略)
二十五日 真山君と共に下田に遊ぶ 大仁より下田まで十五里山を上下して自働車三時間半を要す
(略)松陰の遺跡、ペルリ、ハルリス等の遺跡皆よく見届けたり 夜某古老につき昔話をきく 面白き一日なりし
(略)

大正8年7月23日の条中「一本杉」は青果が明治座用に脚本を書いたもの。この記述だけでは、青果と吉野が出会ったかは分からない。大正11年9月29日の条は数日分をまとめて記載されたもの。同月25日に青果と吉野が下田へ行ったことが分かる。前記青木氏の論考によると、昭和4年8月歌舞伎座で上演された『唐人お吉』の脚本に関し、青果がお吉の事跡を調べる為に幾度か下田へ行ったという資料が示されているが、大正11年の頃から関心を持っていたのかもしれない。
もう一つ、青果と吉野の親しさを示すエピソードを吉野の日記から引用しておこう。

(大正十三年)
七月十五日 火曜
(略)昼過富塚君来る 真山君の伝言なりとていふ(はつきり頼まれたのでないかも知れず) 真山例により一杯機嫌で伊藤茂雄君*2にいふ 中央公論社が吉野を看版[板]にして発展しながら相当の礼遇をしないのが怪しからぬ 之が度重つたので伊藤君之を社長に告ぐ そこで社長尤もと考へたとやら 改めて真山君に普通の原稿料以外に毎月二百円とか三百円とかの礼をする 夫には外の雑誌に書かぬといふ条件を附したい 之れの承諾を吉野に求めて呉れと申込んだとやら そこで真山君から僕に之を承知するかとの問合也 冗談ではない そんなことで縛られては迷惑だ 飛んだ余計な事をを[ママ]すると返事してやる(略)

[ ]は編者による注記

青果もいくら吉野と旧友とはいっても、要らぬお世話をしたようだ。

*1:中央公論社長の麻田駒之助

*2:木佐木の同僚の編集者

芸艸堂が発行した謎の西洋芸術叢書

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寿岳文章が『美』23巻3号(芸艸堂、昭和4年9月)に「ブレイクの画論」を書き、それが西洋芸術叢書として刊行されたらしいことは、「壽岳文章と芸艸堂 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した。百万遍知恩寺の秋の古本まつりで『美』のその号を拾った。玉城文庫の1冊200円3冊500円コーナーから。大量に出ていた同誌の目次を全部見て、掘り出した。写真をアップしようと思ったが、おこたを出すために積ん読本をかたづけたため、所在不明に(´・_・`)
ところで、この西洋芸術叢書に謎がある。壽岳の『ブレイクの画論』は麗澤大学図書館が所蔵しているが、OPACでは東洋芸術叢書となっていて、同図書館の誤入力だと思っていた。ところが、芸艸堂の目録で西洋芸術叢書とされている本で実際は東洋芸術叢書として刊行されているらしいものが他にもあった。園頼三『絵画に於ける点・線・面』と中川伊作画・南江二郎著『新舞台芸術としての人形芝居及簡易な人形座作成法』である。どちらも芸艸堂の目録では西洋芸術叢書として挙がっているが、前者は国立新美術館アートライブラリーで東洋芸術叢書19、後者は白百合女子大学児童文化研究センターで東洋芸術叢書20とされている。3つもあると、誤入力は考えにくくなる。西洋芸術叢書は本当に刊行されたのだろうか。芸艸堂さん、教えて~

朗報!『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』が金沢文圃閣へ注文可に

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今日の京都新聞にはビックリ。1面に松本清張が「火の路」(原題「火の回路」)執筆に際して、手紙で教えを請うた京都の古代史家藪田嘉一郎に関する記事。連載開始直後の清張の手紙には、「『藪田ゼミナール』に入っているような気持がします」とあるらしい。詳細は、24面で樺山聡記者による連載「ウは「京都」のウ」のファイル19「松本清張の「先生」」に掲載。嘉一郎の長男夏雄氏が清張と嘉一郎の往復書簡や日記などを京都新聞に公開したという。なぜ清張が一部の論客から「怪物」と呼ばれた在野研究者の嘉一郎を「先生」に選んだのかという謎に迫る連載である。
ところで、この嘉一郎や清張がもう1人書簡で教えを受けた福山敏男京大名誉教授、どちらも『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』に載っていた。さすが文学フリマ東京で大人気だったという同人誌である。さて、東京まで行けなかった皆様に朗報があります。「【重要】『昭和前期蒐書家リスト』通販分の入手方法について(おしらせ) - 書物蔵」から要約すると、

・1冊1650円(税込)+送料で1人3部まで販売
金沢文圃閣へ事前予約が必要
・12月24日に前払い入金先案内のメールを金沢文圃閣から送信
・12月26日以降発送予定
・事前予約終了後残部があれば「日本の古本屋」で販売

金沢文圃閣の事前予約用アドレスなど詳しくは前記書物蔵氏のブログを見られたい。
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小林法雲(小林法運?)の気合術を「軍艦金剛航海記」でステルマする芥川龍之介

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栗田英彦・塚田穂高吉永進一編『近現代日本の民間精神療法 不可視なエネルギーの諸相』(国書刊行会)は、柄谷行人氏の書評も朝日新聞に出たし、好評のようだ。今回は、同書の「民間精神療法主要人物および著作ガイド」関係の話。一時期は数万人いたと言われる民間精神療法家だが、『破邪顕正 霊術と霊術家』(霊界廓清同志会、昭和3年6月)で紹介されているのはわずか310人程度*1。ほとんどは名前も残っていない療法家ばかりである。本ガイドは、「特に代表的なもの、これまで研究が進んだもの」50人ほどを取りあげているが、名前は知られていても研究が進んでいない療法家も多いようだ。先日文学フリマ東京で発売された『昭和前期蒐書家リスト』が大好評だったようだが、栗田先生あたりに『昭和前期霊術家リスト』を作って、文学フリマで売ってもらいたいものである(冗談です)。
さて、私が小林法運という祈祷師の名前に初めて出会ったのは、蜂須賀年子『大名華族』(三笠書房昭和32年10月)の「ある祈祷師」だった。民間精神療法家の範疇に入れてよいか疑問もあるが、話題にしてみよう。年子が聖心女学校を卒業した頃、妹の耳病を治すために法運が呼ばれたが、年子の過去や現在について何も的中せず、妹の病気もよくならなかったという。法運が年子の「過現未三界のこと」を当てようとした時の様子は、

(略)私はサカキの枝をかるく両手に持つて、そこに坐つた。
小林は私のうしろで何かブツブツと経文をとなえていたが、
「やあッ」
とてつもない大声を出した。
私はピクリとしたが、何事もない。するとうしろの小林は急にペラペラとしやべり出した。

娘の耳病はよくならなかったが、父親蜂須賀正韶に気に入られ蜂須賀家の相談役になり、その後北海道の蜂須賀農場の支配人に。昭和5年には解任されるが、10年近く支配人を務め、経営は成功したらしい。明治29年生まれの年子が聖心に入学したのは16歳時とあるので、法運に出会ったのは大正初期ということになる。
この法運らしき人物が芥川龍之介の「軍艦金剛航海記」にも出てくる。青空文庫で読める。

(略)外の連中は皆同じ食卓についた八田機関長を相手にして、小林法雲の気合術の事なんぞを話してゐた。

初出は大正6年7月25日から29日までの『時事新報』の文芸欄。「法運」ではなく、「法雲」となっているので、別人の可能性はある。法運の方の経歴は財団法人報恩会編纂委員会編『慈愛に満ちて』(文芸社、平成19年5月)に載っている。これによると、明治9年10月千葉県生、本名幸太郎。24歳の時に東京へ出て、星亨のもとで政治家になる勉強を。星が暗殺された後は、日蓮関係の書を読み、修行を続けた結果、不思議な法力が身についた。明治43年千葉の清澄山で真言宗の修行者と法力合戦をし、勝利する。戦いの後、法運と名乗るようになり、日本中を歩き法力で多くの病人を治した。驚くのは、蜂須賀家の娘の耳病も治したとある。その後の父親の信頼度から言うと、何らかの効果があったと見る方が正しいのかも知れない。芥川が法雲の名前を軍艦金剛乗船時に聞いた大正6年は法運が法力で日本中の病人を治していた時期に当たるようなので、同一人物の可能性は十分ある。法雲にしろ、法運にしろ、『時事新報』の読者に知られているほど著名だったとは思われないが、芥川には宣伝する意図があったのだろうか。

*1:破邪顕正 霊術と霊術家』は、目次から193・194頁の「霊知学研究会長山代霊然」が漏れているので注意

西荻モンガ堂でかわじ・もとたか企画「個人名のついた研究会会誌の世界」展

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岡崎武志さんに「だまされて」古本病にかかってから古書店を開業するまでの経緯が『週刊朝日』で紹介された西荻モンガ堂。そこで12月2日(月)から22日(日)まで(水曜休、12時~20時)「個人名のついた研究会会誌の世界」展が始まる。かわじ・もとたかさんの企画で、林哲夫さんを始め、私も含めて7人が出品に協力。出品目録もでき、『日本近代文学館』292号,令和元年11月にもかわじさん自身による紹介記事が掲載され、準備万端のようだ。私も首都圏からの来客も多い京都の善行堂と大阪の「本は人生のおやつです!!」にチラシを置いていただいた。
展覧会を開く古本屋が増えてきたようで、関西でも姫路のおひさまゆうびん舎、神戸の1003、大阪の前記本おや、京都のマヤルカ古書店などで魅力的な展覧会が開催されている。西荻モンガ堂での展示は、協力者の分も含めて300冊以上。日本近代文学館の雑誌目録カードを全部(何枚あるんだろう(^_^;))くくったり、ネットや古書展で探したり、時には研究会が置かれた大学に手紙を出したりして、精力的に蒐集に取り組んだかわじさんの苦労の集大成である。過去に盛厚三さん主宰の雑誌『北方人』に「個人名のついた雑誌」として連載されたことがあるが、その後更にパワーアップしたコレクションとなっているようだ。西荻モンガ堂では直接手に取ることもできるというので、文学館等の展覧会では味わえない時代の息吹・情熱を実感できることになる。滅多にない機会なので、特に首都圏の皆様はぜひお越しください。
↓私が提供した会誌の一部です。
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