神保町系オタオタ日記

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大正6年慶應義塾図書館の閲覧室で開かれた福澤先生十七年忌晩餐会

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福澤諭吉明治34年2月3日逝去。今なお慶應の塾生・塾員(卒業生)から福澤先生と呼ばれているようだ。「日本の古本屋メルマガ」で「『図書館絵葉書』を発見した人」として紹介された書物蔵氏も慶應文学部卒で塾員である。その書物蔵氏は、大学図書館で学生嘱託として働いたことがあったという。
さて、明治45年に慶應義塾創立五十周年記念図書館として建てられた図書館旧館は、改修工事を経て、来年夏「塾史展示室(仮称)」となるらしい。塾員高橋義雄の日記『萬象録 高橋箒庵日記』巻5(思文閣出版、昭和63年10月)によると、ここで福澤の17回忌晩餐会が開催された。

(大正六年)
二月三日 土曜日 (略)
[福澤先生十七年忌晩餐会]
午後五時、福澤一太郎氏の招待に応じて、慶應義塾図書館に開かれたる福澤先生十七年回忌晩餐会に参列す。当日来客百人前後なるを以て図書館の読書室を食堂と為し、デスクを以て食卓に代用したるは名案と云ふべし。余は図書館建設後今夜初めて内部に入りしが、ホールに小幡篤次郎、門野幾之進両氏の胸像を備付けあり、小幡氏の方は格別見苦しき程にも非ざりしが、門野氏の方は余りに形似を求め過ぎて容貌の欠点のみを誇張し其陰鬱なる悪相、人をして不快の感を生ぜしむ。斯かる胸像を永世に遺されたる門野氏こそ実に気の毒と云ふべけれ。日本の未熟なる彫刻家に胸像を頼みて斯かる失態を生ずるは大に注意すべき事共なり。

[ ]内は、原本欄外にある見出しを校訂者が本文に付したもの

ネットで読める『慶應義塾図書館史』によると、大閲覧室は2階にあり、閲覧者150人用であった。なるほど、100人規模の晩餐会にはうってつけだったわけだ。また、玄関広間に義塾功労者として大正4年から6年にかけて、小幡、門野、鎌田栄吉の大理石像が北村四海の手で作られたという。なお、同図書館史は「シュメールにハマッタ慶應義塾図書館員 - 神保町系オタオタ日記」、「慶應義塾図書館のトンデモ図書館員井上芳郎と柳田國男 - 神保町系オタオタ日記」や「慶應義塾の“図書館内乱” - 神保町系オタオタ日記」で見たように、ユニークな図書館史である。