神保町系オタオタ日記

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柳田読みの柳田知らずーー『柳田國男全集』第34巻中「旅の文反故」解題への補足ーー

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柳田國男全集』34巻(筑摩書房平成26年3月)に「旅の文反故」が収録された。三村清三郎が写しを所蔵する*1「姉上様」宛の柳田の書簡を胡桃沢友男(胡桃沢勘内の長男)が『信濃』30巻1号(信濃史学会、昭和53年1月)に発表したもの*2を収録している。解題を担当した小田富英氏は、「姉上様」を柳田の妻孝の妹(矢田部)順か(木越)貞とし、書簡中に旅先で詠んだ歌が書き込まれていることからも、歌の師松浦萩坪門下で同門の順の可能性が高いとしている。順とする説は胡桃沢や岩本由輝氏も採った説である。元々この書簡は三村が『旅と伝説』昭和5年9月号の寄稿で公表しようしたが、柳田に問い合わせると自分が明治34年信州旅行に際して「あによめ」に送ったものであることを認め、「どこから此の文反故を見付けたか」と不思議がり、掲載を拒否したため没になったものだという。実はこの書簡の出所は、小田氏が同巻で解題を書いた「大正七年日記」に出ている。民俗学者は柳田の『炭焼日記』は読んでいるだろうが、断片的な日記は重視しないのだろうか。

九月二十二日 (日) 朝雨、冷なり
(略)
△木越宛の古手紙文行堂の店に出て居るとて井上から報知あり
(略)
九月二十八日(土)
(略)
△木越氏来訪、此官舎へは始めてか。先月の手紙のことをいふ 屑屋へうつたものゝ中にまぎれてゐたとのこと
(略)

これだけだと木越貞宛書簡が流出したとは断定できないが、まさしく三村の日記大正7年9月21日の条に記載があった。『演劇研究』24号(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、平成13年3月)で、既に「柳田國男の幻の妻 −木越安綱夫人貞− - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。三村の日記はどこまでが伝聞なのか分かりにくく、かつて私も誤読してしまったが、要約すると三村が骨董屋の柳田(柳田國男と紛らわしい)から「木越安綱夫人貞子宛」手紙を入手し、内田魯庵に見せたことが記されている。発信者は判然としないが、柳田國男又は夫の木越安綱と思われる。ただ、魯庵は「木越か最愛なる貞子と書いてあるつて」と発言しているが、そのような文言は胡桃沢が公表した書簡中にない。三村が入手したのは骨董屋の柳田からで、柳田の日記には文行堂に出たとあるので、屑屋からあちこちへ出回った複数の書簡があるのだろう。貞宛書簡とは別に順宛の書簡が流出し、三村がその写しを入手する可能性もゼロではないが、「旅の文反故」は貞宛と同定してよいだろう。
この三村の日記は、掲載誌が『演劇研究』なので演劇研究者以外にはあまり読まれていないと思うが、民俗学者近代文学研究者は機会があれば読んだ方がよいだろう。何か発見できるかもしれない。蒐集家や蔵書印ネタもあったと思う。近代仏教研究者には関係なさそうかと思いきや、「催眠術師が多すぎる! - 神保町系オタオタ日記」、「催眠術師赤塩精と福来友吉 - 神保町系オタオタ日記」や「朝日新聞記者西村真次を訴えた催眠術師 - 神保町系オタオタ日記」で見たように催眠術師に関する記事が出てきたりするので、油断はできない。私も一時期この日記にハマっていたが、ここ数年は読んでいない。未読分を読んだら、また大発見ができるかもしれない。

*1:三村は「或る人の持てる文反故なり」とコメントしているので、原本は第三者が所持しているようだ。

*2:柳田國男と信州』(岩田書院、平成16年5月)に再録