神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

家蔵の『京都図案会誌』(明治37年)により、大平奈緒子「『小美術』と谷口香嶠、浅井忠のかかわり」に補足


 京都図案会事務所が発行していた『京都図案会誌』については、「京都工芸繊維大学美術工芸資料館で「図案家の登場ーー近代京都と染織図案Ⅲ」展が始まった - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。明治36年に設立された京都図案会の初期の活動が分かる重要な史料である。また、交流のある図案家、画家、文化人の団体や展覧会などに言及されている点も見逃せない。
 たとえば、小美術会に関する次のような「時報」がある。

第2号(明治37年7月7日)
◎小美術会 同六月の例会を同一日浅野古香氏宅に於て開きたるが谷口香嶠氏隣席し会員の製作品に批評を加へたり猶七月の例会を来る一日西川一草亭氏宅に於て開くと

第3号(明治37年9月3日)
◎小美術会例会
八月四日 西川一草亭氏宅に開く、谷口香嶠氏の作品批評、会員の互評等ありたり

 小美術会とはどんな団体だろうかと思っていたところ、並木誠士編『近代京都の美術工芸Ⅱ:学理・応用・経営』(思文閣出版、令和6年7月)所収の大平奈緒子「『小美術』と谷口香嶠、浅井忠のかかわり」に出会えた。華道家の西川、その弟で画家の津田青楓、両者の幼馴染で漆芸家の浅野の3人が明治37年に結成した団体であった。
 大平論文では、明治37年7月2日に小美術会が南禅寺近くの和楽庵で開催した「光琳会」に注目されている。この会には、香嶠、浅井、富岡鉄斎、中塚太二郎、藤井培屋、高安月郊らが尾形乾山尾形光琳酒井抱一らの掛物、屏風、茶碗等を出品した。来場者の中に鹿子木孟郎、神坂雪佳、武田五一のほか、「大学の島」、「図書館の湯浅」、岡本橘佃(ママ)がいて、大平氏は後3者についてそれぞれ京大附属図書館長の島文次郎京都府立図書館長の湯浅吉郎*1、旅館万屋の主人岡本橘仙*2かと推定している。更に通訳付きのアメリカ人2人(うち1人はコロンビア大学教授で東洋美術の調査に来た人物)もいたという。
 さて、大平氏が名前を挙げていないコロンビア大学教授の名前が『京都図案会誌』3号に記載されていた。

⚫和楽庵の光琳会 (略)猶ほ谷口香嶠氏の理想的光琳像、浅井忠氏の明治式光琳風とでも云ふべき氏が得意の画なども出品されてあつた▲当日の来会者は多く文士、画家等で彼の米国コロンビヤ大学教授のドクトル、リチヤルド氏も又来観し、頗る熱心に説明を求めてをつた

 「リチヤルド」という教授だった。研究者ならこれで特定できるだろうか。
 『京都図案会誌』の同号には、光琳会の2日後同じく南禅寺近くで開催された顔見会についても記載があった。

南禅寺畔の顔見会
 島華水、岡本橘仙氏等の発起にて七月四日午後一時より南禅寺畔新宮氏の旧順正書院に於て文士、画家、其他芸術家の顔見会と云ふを催せり(略)浅井忠、鹿子木孟郎、田村宗立諸氏の交る交る入り換り立ち替りて会衆の似顔を描きたるは非常の喝采なりし(略)当日玄関を入りて芳名録と題するものに名を署したるは平尾不狐 武田五一 山下廓外 薄田淳介*3 児玉花外 田村宗立 山口霧汀 小川多一郎 斎藤紫軒 村上猪蔵 宮田小文 池辺義象 桜田文吾 金子錦二 湯浅吉郎 北村鈴菜 浅井忠 堀江純吉 鈴木鼓村 大道和一 小山源治 藤井培屋 島田弥一郎 高谷宗兵衛 今井清次郎 鴨脚秀克 原田加寿 島文次郎 吉田恒三 高安月郊 鹿子木孟郎 岡本楢[ママ]吉 伊藤[ママ]陶山の諸氏なりき。

 島文次郎(号華水)、湯浅吉郎、岡本橘仙(本名猶吉)を含めて、2日前の光琳会に集まった人達が再び顔見会に参加したことが分かるよい史料ですね。
 なお、京都図案会については、『近代京都の美術工芸Ⅱ』に岡達也「図案の語義と概念の展開に関する研究ーー明治期の美術・図案雑誌を中心として」が収録された。こちらについても、別途投稿する予定である。