神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

集古会会員としての旅館萬屋主人岡本橘仙と夏目漱石

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 蒐集家だった神戸の西村旅館の西村貫一。そう言えば、京都に似たような人がいた。萬屋主人の岡本橘仙である。岡本は、斯界のバイブル、トム・リバーフィールド編、書物蔵監修・解説『昭和前期蒐書家リスト』にも載っている。「蒐集分野」の記載はないが、典拠が『千里相識』(集古会、昭和10年9月)なので、驚くべきことに集古会会員だったことがわかる。もっとも、山口昌男内田魯庵山脈』に地方会員として、新村出富士川游、山田孝雄らと共に名前が出ている。やはり、山口昌男は偉かった。
 ググると、「待ってました!」とばかりに国文学研究資料館「蔵書印データベース」の「蔵書印DB橘仙」がトップ。ちなみに、2番目は斎藤光先生の論文「祇園への視線ーー1910年5月の京都、吉井勇におけるその体験と表現ーー」である。『集古会会誌』庚戌巻2,明治44年1月の「会員名簿」には、本名の岡本猶吉で載っていて、蒐集分野は「俗曲に関するもの」だったことが分かる。また、「グーグルブックス」で検索すると、横山重や木村仙秀が岡本の蔵書に言及しているので、相当の蔵書家だったと確認できる。
 前記「蔵書印データベース」の「人物情報」に萬屋文人の定宿で、徳富蘇峰高浜虚子らが泊まったことが記されている。明治42年夏目漱石も泊まっていることは、「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。その後、岡本と漱石は知り合い、大正4年4月18日消印の磯田多佳宛書簡に「岡本さんに礼状を出さうと思ひますが名前がよく解らないからあなたからよろしく願ひます」と出てくる。『定本漱石全集』24巻(岩波書店、令和元年11月)の「人名に関する注および索引」は、この「岡本」を「不詳」としてしまっている。その後、同全集28巻(令和2年3月)の月報の正誤表で、「岡本橘仙(1869-1945) 本名は猶吉.生家は京都三条の旅館万屋.一時日本画を学び*1,風流人として知られた」に訂正された。岡本は、例えば瀬沼茂樹日本文壇史』21巻に、

 岡本橘仙、金子竹次郎の案内で、二人(谷崎潤一郎長田幹彦ーー引用者注)はまた新橋縄手東入のお茶屋大友に出かけた。伽羅の薫のただよう黒光に光った薄暗い家の中で、白川の水が床下を流れているのは風情があった。女将は祇園の一力楼の女将おさだの妹で、磯田多佳といい、数え年三十四歳であった。(略)芸妓をやめた後も、夏目漱石高浜虚子吉井勇などによく知られていた。(略)

と出てくる人物である。当初「不詳」としたのは、勉強不足だろう。
参考:「岡本橘仙や金子竹次郎らの読書会記録『列子天瑞篇之研究』ーー黒田天外の旧蔵書かも?ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:「『やはらかもの』一夕話」『書物の趣味』第1冊,昭和2年11月に、「十五の時、久保田米僊といふ人に就て画を習ひました」とある。