神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

萬年社の創刊号コレクション

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平成11年に倒産した大阪の広告代理店萬年社が所蔵していたポスター、ビデオテープ等は、「萬年社コレクション」で見ることができる。だが、所蔵していた図書類の目録は公開されていないので、全貌は不明である。ところで、「株式会社萬年社蔵書之印」が押された雑誌が大阪の市会に出たようで、恵美須町の文庫櫂で何冊か発見した。なぜか、創刊号ばかりで、萬年社が創刊号のみコレクションしていたのか、市会への出品者が創刊号だけ選んで出品したのかは不明であるが、タイトルは創刊号コレクションとしてみた。写真は、入手した『文化批判』1巻1号(文化批判社、昭和2年5月)「雑誌『文藝戦線』批判号」である。あまり著名な雑誌ではないようで、『日本近代文学大事典』5巻(新聞・雑誌)に立項されていない。平野謙『文学運動の流れのなかから』(筑摩書房、昭和44年8月)によれば、

(略)文学における福本イズムの悪しきエピゴーネンは、中野重治や鹿地亘ではなくて、昭和七年五月に<<文化批判>>を創刊したグループたちだった、というべきだろう。須田理一、武島肇、岡田五郎、水野正次、伊東隷三の五人を「編輯責任者」として、創刊号の全誌を雑誌<<文藝戦線>>批判号と銘うったこのグループこそ、まぎれもない福本イズムの亜流だった。そのうち武島肇はかつて<<戦闘文藝>>*1という雑誌を主宰した岩崎一の変名ということであり、その<<戦闘文藝>>には先ごろ芥川賞候補となった『鳩の橋』の作者小笠原忠も所属していた、という。岡田五郎は岡田三郎の実弟であって、この弟をモデルにした岡田三郎の『三月変』という小説は、今日もなお読むにたえる作品である。しかし、<<文化批判>>のグループそのものは、文学史的にはいうにたる痕跡も残さずにすぐ消滅したのである。(略)

名前の出てくる5人のうち本誌の発行編輯兼印刷人だった岡田は、『日本近代文学大事典』3巻に牧屋善三として載っているので、紹介すると、

牧屋善三 まきやぜんぞう 明治四〇・五・一七~(1907~)小説家。北海道生れ。本名岡田五郎。岡田三郎の実弟。三・一五事件に連繫して明治学院高等部中退。大宅壮一の下で『千一夜物語』の翻訳に従事。(略)

『文化批判』は、平野が言うとおりすぐに2号で廃刊になったようだ。今回、萬年社の創刊号コレクション(?)の一端が明らかになったが、リストのようなものは残っているだろうか*2

*1:『戦闘文藝』は、『日本近代文学大事典』5巻にプロレタリア文芸雑誌として立項されている。大正13年7月~14年4月発行。主宰は山本伊津雄のち岩崎一。第一早稲田高等学院グループの同人誌

*2:「萬年社コレクション」の「検索ページ」で「創刊号」を検索すると、『東洋自由新聞』創刊号(明治14年)や『美術新報』創刊号(明治30年)などがヒットする。