神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『精神界』をリアルタイムに入手していた藤岡作太郎

f:id:jyunku:20190620203615j:plain
藤岡作太郎は国文学者として知られているが、その経歴から言って宗教関係者の知己も多かった。村角紀子編『藤岡作太郎「李花亭日記」美術篇』(中央公論美術出版平成31年3月)の「年譜」及び村角氏の「解説」から一部を抜き出すと、

明治3年7月 加賀国金沢早道町生まれ
明治17年9月 石川県専門学校附属初等中学科に入学、同級生に井上友一・鈴木貞太郎(大拙)・松山米太郎など
明治20年 7月第四高等中学校予科第三年級に入学。教員に今川覚神。同級生に西田幾多郎、松本文三郎、金田(山本)良吉など
明治22年 西田・松本・金田・川越宗孝らと「我尊会」発会、自筆回覧誌『我尊会文集』を作成
明治24年 9月帝国大学文科大学国文学科に入学。哲学科1年に小谷重。後に2学年下の国文学科に佐々政一(醒雪)、哲学科に高山林次郎(樗牛)、姉崎正治(嘲風)などが入学。哲学科撰科に西田など
明治27年 7月卒業
明治28年10月 旧師今川覚神の誘引により真宗大谷派第一中学寮教授、同大学寮嘱託を兼任し京都に転任。生徒に暁烏敏。11月大学寮で『無尽灯』創刊、編集に携わる。
明治30年9月 第三高等学校教授
明治33年9月 東京帝国大学文科大学国文学科助教授となり、単身東京に移転、曙町あたりに下宿
明治34年2月 京都の家族をよびよせ本郷区山新町に移転

こうしたネットワークがある中、明治34年1月15日清沢満之、佐々木月樵、多田鼎、暁烏らにより雑誌『精神界』が創刊された。藤岡の日記には初期の同誌が出てくる。

(明治卅四年二月)
十五日 (略)
雑誌精神界二号[同年一月に清沢満之暁烏敏ら精神界発行所より創刊]送り来る
(同年三月)
十六日 (略)
精神界三号 無尽灯六巻三号 送り来る

[ ]内は翻刻者による補注

藤岡は創刊号が出た1月には京都にいた上、同月16日から25日分の日記がないのが残念だが、2号及び3号を入手していたことが確認できる。『精神界』は、暁烏編著『清沢満之の文と人』(大東出版社、昭和14年5月)の「清沢満之先生小伝」によれば

三十九歳明治三十四年の一月十[ママ]日に『精神界』第一号が発行せられた。二千部印刷した。二月になつて一手販売の東京堂へ行つて調べてみたら、四百部売れてゐた。当時の雑誌としては、先づ先づ成功であつた。(略)

当初2千部発行された『精神界』は暁烏が言うように売れたようで、3号の「社告」に1号、2号共に売切とある。この発行部数2千は「明治41年における雑誌の発行部数」で見たように明治40年代に入っても維持されたようだ。