リネル商会のリネルだが、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブ「新聞記事文庫」で「リネル」を検索したら、大正7年1月1日『神戸又新日報』の「神戸港の今昔/永住五箇国人」に談話が載っていることが判明。まず記者による「エチ、イー、リネル」の紹介は、
・土佐藩の御雇い教師を振り出しに三井製茶部の鑑定役、大商館の主人、ポルトガル代理領事等波瀾曲折に富む生涯を経た。
・阪神内外人間に最も名が知られている。
・欧州戦争に愛児2名を出征せしめた。
・塩屋の自邸で年中厳冬でも毎朝海水浴を行う。
リネルの談話は、
・初めて神戸に上陸したのは明治2(1869)年11月。
・それは、父がイギリス艦の艦長として東洋にいた関係から父の友人であるオルト商会主の推薦により土佐山内家の英語教師に聘せられたためである。後に茶商として幅を利かせるヘリアと二人で土佐藩へ行った。
・当時土佐藩には汽船が4、5隻あって、大阪から乗ったのは元アメリカの砲艦キャソリン号300トンで海城丸といった。土佐藩には他に夕顔、安平、浦戸などがあった。
・高知では五代[ママ]山の寺院に住み、3年半滞在した。
・生徒の中には島村、阪本らの諸将、豊川良平、末延道成、塚原前管船局長らがいた。
・最初に神戸を見たのは開港の約2年後で、今の郵船会社支店の位置にペレピク、ホテルという旅館があった。海岸には外商館が若干できていたが、居留地に門があって出入りを取り締まる時代であった。
・神戸で宿泊したのは、父の知り合いのオランダ領事で和蘭貿易会社支配人コートホールス宅で今の県庁の所にあった。
小島の『百年目にあけた玉手箱』にあった父親との確執から乗り込んだ船が文久2(1862)年土佐沖で遭難し、家老の深尾家に預けられたというリネルの経歴とは随分違う。リネルはどうやって日本に来たかは発言してないが、まさか父の艦で日本に来たのではないだろうな。長崎などに寄港したイギリス艦にリネルという艦長がいたかも調べる必要がある。小島は、リネルが土佐では深尾家(城代家老)のまき姫*1に英語を教えたとか、晩年も塩屋の海で毎日沐浴していたと書いているので、その点は一致している。しかし、リネルには香港大学に入学した一人息子秀雄と娘の桃子がいたと書いていたが、もう1人息子がいたようだ。
リネルが挙げている知人を田井玲子『外国人居留地と神戸』(神戸新聞総合出版センター、平成25年11月)の「神戸外国人居留地内商館等の変遷」で確認すると、
「オルト商会主」・・・当初の競売時(1869年6月1日)の83番地と85番地にヲルト商会(英国)Alt&Co.
「ヘリア」・・・明治30年代の92番地にヘリヤ商会(英)Hellyer&Co.、業務は製茶輸出
「和蘭貿易会社支配人コートホールス」・・・当初の競売時の41番地(1870年5月16日)と42番地(1868年9月10日)にコルトハウス(蘭国)W.C.Korthals
また、14番地の明治19年の欄を見ると、ポルトガル領事館の領事代理としてリネルの名前と共に、「エチ、イー、レーネル商会」H.E.Reynell&Co.が挙がっている。面白いのは、同番地の当初の競売時(1868年9月10
日)の欄にキルビー(英国)E.C.Kirbyの名前があることだ。ハンターは独立する前はキルビー商会に勤めていたことが知られている。小島がハンターはリネルの部下だったというのは、何らかの根拠があるのかもしれない。更に89番地の当初の競売時(1873年2月17日)の欄にヘンリー、レーネル(英国)Henry Reynell、114番地の当初の競売時(1873年2月17日)の欄もヘンリーレーネル(英国)Henry Reynellとある。リネルが高知から神戸に戻った後、明治6(1873)年に神戸居留地を取得したと考えると辻褄は合っている。
『神戸又新日報』の記事で記者がリネルを「阪神内外人間に最も名が知られている」と紹介したり、在留51年の米人スエンが「初期の神戸の事柄はリネルが一番明るいと思う」と発言しているが、今日リネルの名は日本でキネトスコープを初めて輸入した者として一部の人に知られるだけで、詳しい経歴は不明であった。それに対し、同じく土佐藩で英語を教えたというヘリアの方は経歴が判明しているようだ。田井氏の書によると、
ヘリヤ商会(Hellyer&Co.)は、イギリスのポーツマス出身のフレデリック・ヘリヤ(Frederick Hellyer 1849〜1913頃)が、明治14(1881)年に神戸に設立した製茶輸出会社。(略)ヘリヤ兄弟は、長崎を拠点に活動した貿易商・オルト(William Alt 1840〜1905)の甥に当たり、フレデリックは、長崎のオルト商会(Alt&Co.)を経て、同商会の神戸への進出に伴って来神。同僚のH.J.ハントと設立したハント・ヘリヤ商会(Hunt.Hellyer&Co.)の経営に携わったのち独立し、弟のトーマス(Thomas.W.Hellyer)らが加わってヘリヤ商会を設立した。
ヘリヤと親戚だったというオルトはリネル(とヘリヤ)を土佐藩に推薦したというオルトのことだろう。また、明治6年にリネルが買った114番地は前記「変遷」を見ると明治19年以降ヘリヤル商会(ヘリヤ商会とも)の土蔵があったことがわかる。
驚いたのは、田井氏によるとヘリヤ商会は現在も静岡市で有限会社ヘリヤ商会として茶の輸出に携わっているという。リネルと共に土佐藩でお雇い英語教師をしたヘリヤが興した会社が現在も形は変えてはいるが存続していたとは。それならヘリヤのより詳しい経歴を調べる手がかりがありそうだ。それによりリネルの秘められた経歴もわかるかもしれない。後は、幕末・明治期の土佐藩の歴史に詳しい人なら何か知っているかもしれない。
(参考)「キネトスコープを初輸入した神戸居留地14番館リネル商会に関する新情報」
追記:グーグルブックスによると、平尾道雄『土佐医学史考』(高知市民図書館、昭和52年)133頁に「教師はボージャの外に、リネル、ヘリャーを聘し」とあるようだ。