神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

キネトスコープを初輸入した神戸居留地14番館リネル商会に関する新情報

ビブリア古書堂の事件手帖』7巻(メディアワークス文庫、平成29年2月)をようやく読了。「あとがき」にシェイクスピア関連の蔵書を見学した明星*1大学への謝辞が述べられていた。明星大学というと小島威彦が教授を務めた大学だが、最近小島の自伝『百年目にあけた玉手箱』全7巻を読み直していると、色々発見があった。
まず、第1巻にリネル商会のリネルが出てくる。小島の父小島守気の親友だった人物。神戸の居留地にあった14番館リネル商会は日本映画史に詳しい人にはエジソンが発明したキネトスコープ(のぞき眼鏡式活動写真)を明治29年日本で初めて輸入した店として知られている。なお、塚田嘉信『日本映画史の研究ーー活動写真渡来前後の事情ーー』(現代書館、昭和55年11月) は、輸入したのは実際はブルウル兄弟商会でそこからリネル商会に渡ったのではないかと推測した上で、『日本紳士録』(交詢社明治30年12月)*2 記載の「リ子ル商会」について紹介している。それによると館主は、H.E.Reynell、支配人はP.Symes、番頭は内田幸三郎である。ちなみに、14番館は現在も残る15番館の東側、神戸市立博物館の敷地の一部に立っていたようだ。
さて、『百年目にあけた玉手箱』1巻(創樹社、平成7年1月)によると、リネルの経歴は、

・小島守気(1853年生)より5歳年上
・リネル家は、スコットランドのウィスキー醸造の中心的存在*3
・幼少期奔放な性格のため、父の怒りに触れて2階から蹴り落とされ、日本行きの英国船に乗り込むことになった。
文久2(1862)年に土佐沖で遭難し救助された後、「佐川藩[ママ]主、高知[ママ]藩城代家老」の深尾家預りの身*4となる。維新前夜の高知藩の動向の羅針盤ともなり、国際的情報源ともなった。
・維新後、神戸開港、外人居留地の中心人物として、鉄工所、造船所の建設に成功。
エドワード・ハンターはリネルの懐刀と称されたが、リネルから独立して範多商会を創立した。
・守気の媒酌により兵庫県士族の娘つるをめとり、塩屋に大邸宅を構えた。晩年は落ちぶれて塩屋の漁師の隠居の2階に1人で暮らした。なお、邸宅はハンターの所有を経て、アッチャーソン(医師)の物となった。

驚くべき経歴だ。本書が刊行された時点で小島は90歳代で本書は時系列の混乱等誤りも多いから、記述をそのまま鵜呑みにすることはできない。たとえば、王子動物園に残る旧ハンター住宅で知られるハンターについて、リネルの部下だったというのは従来知られているハンターの経歴にはない。ただし、同巻の口絵には「父の親友リネルの社員・後の範多商会の創立者」のキャプション付でハンターの写真が載っている*5ことから、リネルとハンターには知られざる関係があった可能性はある。余談だが、小島の妻となる深尾隆太郎の娘淑子の写真も載っていて、無茶苦茶美人である。
映画史や明治・大正期神戸の研究者が本書を読む機会はまず無いと思われるが、是非とも目を通していただきたいものである。裏付けが取れれば論文のネタになるのではないだろうか。
リネルの最期だが、遺言に従い、大正15年の夏、火葬の後、小島と父が明石海峡で小舟から遺骨を海に撒いたという。まるでドラマのようだ。

百年目にあけた玉手箱〈第1巻〉茅渟の海

百年目にあけた玉手箱〈第1巻〉茅渟の海

*1:「めいせい」と読む。

*2:国会図書館デジタルライブラリーで見られる。

*3:塚田著によると、『映画史料』9集(昭和38年5月)の水野一二三「関西映画落穂集2」には、リネル商会は「ユダヤ系の商館」とある。

*4:18歳でお預かりとなったともあるので、遭難時の数え15歳と数年差がある。なお、『百年目にあけた玉手箱』2巻には、「土佐の漁師に救われたのを、慶応元年のことでまだ鎖国中だったので、時の城代家老の深尾家にお預けになった」とある。

*5:なぜかリネルの写真がないが、グルム(ドイツ・神戸総領事)やアッチャーソン(父の親友・英ロイヤルアカデミー会員)の写真も載っている。