神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

天津教と安江仙弘

ウィキぺディアの安江仙弘の項には書かれていないが、安江も竹内文献の信奉者の一人であった。『真崎甚三郎日記』によると、

昭和10年4月19日 安江中佐約束通来訪しあり。水戸竹内家宝蔵の古物神代文字等に就て研究し、日本の建国に就て最早一点の疑ふ余地なきことを説明す。予の如き素人が未だ何等の評論を下すこと能はざれども、何れにしても皇室に不敬に亘らざる注意を以てするの必要なることを力説しおけり。

    6月27日 安江仙弘三時に来訪す。例の武(ママ。以下同じ)内家に宝蔵しあるものに関するものにして今回富山県下にモーゼの墓を発見せりと云ひ、又南米ボリビヤにて発掘せし二千年前のものにして各地大学にて研究せしも要を得ざりしが武内家にて調査せしに出所明瞭となれりと写真を示し、又近時米国の文献にて大昔「スメル」国ありしことを発見せしが之は正に武内家の記録にて日本なること判明せりと云ふ。予等素人には何等未だ断案を下す力なきも、兎も角専問[門]家の研究を要することにして予も一度武内家を訪問すべく約束せり。

    9月5日 十時半安江来訪、今回彼が磯原にて研究したることを報告す。即ち耶蘇は磔刑に処せられたるにあらず、弟身代りとなり耶蘇は八戸附近に上陸し日本に来り、其墓もありと云ふ。如問にや。
        兎も角武内家の問題は放擲し置くべきものにあらず。

    9月28日 九時頃安江中佐来訪、来月五日磯原訪問のことを慫慂し来る。予は之を諾す。

注:[ ]は校訂者による註記、( )は引用者による註記。カタカナをひらがなに改めた。

「河豚計画」や安彦良和虹色のトロツキー』で知られる安江だが、竹内文献との関係については、なぜかほとんど言及されることはないようだ。安江が真崎と磯原の天津教を訪問したことについては、「原武史松本清張の「遺言」』への疑問」(2009年8月9日)を参照されたい。

(参考)「大川周明トンデモ本の世界(その3)」(2006年3月3日)。これに補足すると、仲木貞一の『キリストは何故日本に来たか?その遺跡を探る』(東亜文化協会、昭和15年1月)には、「当時陸軍参謀本部勤務の陸軍有数の猶太研究者安井(ママ)仙弘大佐は、わざわざその墓所其他を見に来られ、そして、帰途バスが辛うじて通つてゐる狭い国道を指して、やがては、この路がコンクリートを敷詰めた八間道路に変るだらうと、笑ひながら云つて帰られたとの事だつた」と、安江が青森県にあるいわゆるキリストの墓を見に来たことが書かれている。
安江のこの前後の経歴は、『日本陸海軍総合事典第2版』によると、

昭和2年10月〜3年5月 ユダヤ問題研究のため欧州・パレスチナ出張
  4年8月 近歩4連隊大隊長
  6年8月 東京歯科医専配属
  8年8月 中佐
  12年8月 大佐・第3師団司付
  12年12月 満州国出張
  13年2月 関東軍司付
  13年3月 大連特務機関長
  15年12月 予備役
  16年1月 満鉄安江機関長
  16年11月 ゴールデンブック登載