神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『上方』(昭和6年1月創刊)の南木芳太郎と『雑草苑』(大正15年2月創刊)の池田威


 南木芳太郎と旧大川町遊歩道の「やなぎん」への愛に溢れたヲガクズ『大川町の柳は大大阪の夢を見るか?』。わしもあらためて、『南木芳太郎日記一』(大阪市史料調査会、平成21年12月)や『南木芳太郎日記三』(大阪市史料調査会、平成26年8月)を読んでいたら、池田威が登場していてビックリ。

(昭和五年)
九月一日
(略)『三越』九月号、尚古四巻五号、化粧品商報、池田威君より暑中見舞。(略)
十二月十八日
(略)
道頓堀編輯部より、池田威氏より『上方』発刊に就て祝詞(略)
(昭和十三年)
八月二十九日
(略)
有働君より原稿来る。中西義孝氏よりも原稿。池田威氏「大阪」を送り来る。
(略)

 暑中見舞や上方郷土研究会編『上方』(創元社、昭和6年1月創刊)への祝詞を送ったり、交流があったことがわかる。家蔵の池田宛書簡群には、南木からの葉書が1枚だけだが本来はもっとあったはずということになる。
 日記昭和13年8月29日の条に「「大阪」を送り来る」とあるのは、『上方』の原稿かと思ったが、掲載されていない。没になったか、可能性は低いが池田が『大阪』という雑誌を発行していたのかもしれない。
 『上方』の誌面で見ると、南木と池田の関係はそれほど親しくはなかったようだ。たとえば、『上方』第76号(創元社昭和12年4月)掲載の「上方郷土研究会員名簿」に名前はない。また、第102号(創元社昭和14年6月)掲載の「上方百号記念祝賀会記録」の「来会者名簿」・「出席なく会費のみ受領せし芳名」にも出てこない。家蔵の南木からの葉書は、大正15年9月27日付け消印で、内容は『雑草苑』10月号送付の御礼と感想である。2人がどのように知り合ったのかは不明である。大正15年は、南木が薬種問屋の春元重助商店に勤めていた時期である。そもそも、『上方』創刊以前の南木については情報が乏しい。池田の経歴と共に今後の課題である。
参考:「南木芳太郎はヲガクズ『大川町の柳は大大阪の夢を見るか?』の完結を夢見るか? - 神保町系オタオタ日記