神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

民族研究会幹事内藤順太郎の経歴

民族研究会の常任幹事だった内藤順太郎だが、『国家主義系団体員の経歴調査(一)』(『思想資料パンフレット特輯第二四号』。司法省刑事局、昭和16年4月)によると、

内藤順太郎
生年月日:明治10年5月5日
本籍地:熊本市横手町1031番地
現住所:東京市赤坂区青山南町6ノ101番地
学歴:小学校卒業後独学す
職業経歴:20歳の時郷里を出奔、上京し報知新聞記者、明治40年北京特派員となり滞在4年、爾来40年間、台湾、支那各地を研究し、著述を業とす。此の間台湾総督府、外務省嘱託等を為せり
運動経歴:大正8年8月対支国民同盟に参画、幹事となる。大正12年2月13日約2、3百名の会員を有する国士同盟会を結成、会長となる。昭和6年2月一条実孝、入江種矩、五百木良三、菊地(ママ)武夫らと対外同志会を結成し、常務理事となる。同年10月6日国民外交研究会を創立。昭和9年3月 支那福建省の独立工作を図る可く大隈常信、赤池濃らの賛助を得て、角田清彦を従えて、同地に渡り、種々活躍し、其の後台湾福建省間の航空路開設に努力し、南支方面に活躍しつつあるフリーメーソンの撃滅、反共連盟の拡大強化に奔走。12年7月結成の皇民党顧問となり、同年9月台湾に青年義勇軍を組織す可く同地に渡航
関係団体:国士同盟会(会長)、対外同志会(常任理事)、東亜社(社長)、民族研究会(幹事)、国際反共連盟(評議員)、皇民党(顧問)、国民外交研究会(主宰者)、対支同志会
親交関係:赤池濃、児玉有二、石光直臣、中島正樹、石井三郎、吉井清春、三輪信次郎、松井鉄夫、末永節、上塚司、野尻祐道

内藤のその後だが、真崎甚三郎の日記に出てくる。

昭和18年11月4日 内藤順太郎二男十時に来訪、内藤が先月二十七日富士丸にて死没せし恐十分之あり、長男は入営中、次男も来月一日には入営に付其以前に始末し置き度しとて相談に来しも、予も詮術なく取敢へず堤倉次に依頼すべく予も相談相手たらんと次[告]ぐ。可憐なり。

    11月26日 内藤長男九時に来訪、父の死亡は殆ど確実にして本日より兄弟共に入営の為熊本に赴くとて挨拶に来る。

注:[ ]は、校訂者による註記。カタカナをひらがなに改めた。

諏訪丸は10月27日撃沈され、船客936人のうち57人が死亡したという。おそらくその時内藤は亡くなったと思われる。これで、今後内藤に言及する人は、内藤順太郎(1877−1943?)と書くことができる。

(参考)「反ユダヤ主義を貫き通した四王天延孝」(7月7日
    「剣山に隠されたソロモン王の秘宝をめぐる怪しい人達(その1)」(2007年4月4日
    内藤は普通要視察人だった関係で、アジア歴史資料センター所蔵文書に名前が出てくる。