神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

微苦笑の人久米正雄とモダーン・ガールの人北澤秀一

長野まで行かなくても、薄井秀一=北澤秀一に関して幾つかの発見があった。東京朝日新聞とは別の死亡広告に、親戚総代として、北澤新作、清水金右衛門、西澤豊三郎、薄井登一郎の名前があった。北澤側の資料から「薄井」が出てきたことになる。

あと、東京朝日新聞の訃報では、帰朝後日活宣伝部長とあったが、別の訃報には、「大正八年仏(ママ)国に留学帰朝後は日活計画部長」とあった。加茂令堂『日活の社史と現勢』(日活の社史と現勢刊行会、昭和5年12月)の「歴代の幹部」にも「計画部長−−(初)北澤秀一(爾後廃止)」とある。しかし、計画部長の方が正しいかと思いきや、『日本映画事業総覧昭和3・4年版』の「昭和二年映画界重要記事」の8月25日の項には「元日活宣伝部長北澤秀一氏軽井沢にて死去」とある。どちらが正しいのか、どちらも正しいのか判断がつかない*1

また、薄井と読売新聞記者時代の同僚で、北澤が軽井沢ホテルで亡くなった翌日、ホテルに久米正雄を訪ねてきた正宗白鳥が、昭和3年9月2日付読売新聞の「寒山の詩」に「去年まで活動写真興行に来てゐた北澤秀一君も、今年は追悼映画会を催されるやうになつた」と書いている。更に同日の「よみうり抄」には、

▲故北澤秀一氏追悼会 久米、東、根岸、松崎氏等主催で五日夜六時から尾張町松本楼で一周忌追悼会開催

とある。昭和3年9月5日に久米、東健而、根岸耕一、松崎天民らの主催で北澤の一周忌追悼会が開かれたようだ。これによっても、久米と北澤の親密度がうかがわれる。

(参考)「久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一」(その1)、(その2)、(その3

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表現急行」氏が、木股知史先生と知り、冷や汗をかく。

*1:大正13年の座談会での肩書きは、日活計画部長だった。