神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その2)

1 生年
薄井の生年は不明だが、
松崎天民『人間見物』(騒人社書局、昭和2年11月)に北澤秀一は明治11年生まれの天民より若いとある*1
・米窪太刀雄『海のロマンス』(誠文堂書店・中興館書店、大正3年2月)の「はしがき」で、明治14年生まれの米窪は薄井を先輩と呼んでいる
・赤木桁平の追悼録、永井保編『池崎忠孝』(池崎忠孝追悼録刊行会、昭和37年10月)の松岡譲「『明暗』の原稿その他」に薄井は明治24年生まれの赤木より年長とある*2

これらにより、薄井=北澤は明治12年か13年生まれと思われる。

2 幼少期

薄井秀一の幼少期についても、不明である。横田順彌さんは薄井の長野県における出身中学は判明していると書いておられるが、私には確認できなかった。

3 読売新聞記者時代

明治39年には読売新聞記者となっている。初芝武美『日本エスペラント運動史』によると、明治39年5月16日、17日同新聞に掲載された黒板勝美文学博士の談話「世界語(エスペラント)」は、読売新聞記者薄井秀一の筆になるものという*3。また、同書によると、同年6月12日神田一ツ橋学士会事務所で黒板、安孫子貞次郎、薄井が発起人となり、協会設立の相談会が開かれ、日本エスペラント協会が発足。薄井ら三名は幹事となった。評議員の中には、足立荒人(読売新聞主筆)、堺利彦高楠順次郎田川大吉郎(都新聞主筆、のちに東京市助役(明治41年10月〜大正3年10月))、山縣五十雄(萬朝報記者)の名前がある。

この年の薄井の動向は、夏目漱石全集所収の薄井宛書簡でも見ることができる。10月29日付の「本郷区森川町四番地蓋平館 薄井秀一」宛書簡では、薄井の日曜文壇への執筆依頼に対し、近刊の『文学論』の序ではどうかと書いている。この序は、11月4日の読売新聞に掲載された。40年2月漱石は東京朝日新聞社に入社。同年3月13日付「下谷区上野桜木町丸茂病院 薄井秀一」宛書簡では、病気の見舞いとともに、依頼された『鶉籠』(春陽堂明治40年1月)を小包で送ったことが書かれている。漱石との親しさがうかがわれる。

4 東京朝日新聞記者時代

漱石を追いかけた訳ではなかろうが、41年5月には薄井も東京朝日新聞社入社*4。同社での活動としては、やはり御船千鶴子や長尾いく子の透覚・千里眼や鈴木文殊の神通力を研究した長梧子名義の「神通力の研究」(明治43年10月28日〜11月12日)、「神通力の発言」(同月13日〜25日)が重要だろう。この連載を修正増補したものが、薄井秀一の名前で刊行した『神通力の研究』(東亜堂書房、明治44年3月)である。このほか、長梧子の名義で、

「飛行界の不振」 大正元年11月6日〜11日
「顛倒せる飛行界」 大正元年11月20日〜27日
「飛行機と飛行船の優劣」 大正元年12月1日
「透視と念写の可能(上)・(下)」大正2年8月14・15日

の記事が確認できる。横田さんによると、太田雅夫編『新装版 桐生悠々伝 思い出るまま・他』(伝統と現代社、昭和55年10月)に「東京朝日新聞記者だった私の友人故薄井秀一氏は一時は同新聞の飛行機係であった」とあるという。また、薄井秀一名義で『太陽』に

「飛行機と飛行船の優劣」大正元年12月
「飛行隊を有せざる海軍」大正2年6月
「陸軍の眼目たる飛行隊」大正2年11月

を書いているという。

松崎天民は、明治42年1月国民新聞社から東京朝日新聞社に移ったが、その時、同社社会部には山本笑月、西村酔夢、坂元雪鳥、薄井秀一、美土路昌一がいたとしている(『人間秘話』文行社、大正13年9月)。薄井が社会部に属したというのは、北澤秀一の訃報に「東朝社会部に在」ったということと一致する。

薄井は、この東京朝日新聞時代に漱石とより親しくなったと思われる。漱石大正3年9月5日付小宮豊隆宛書簡には、朝日新聞に小説を書きたいという小宮に対し、漱石は我慢して外に廻してくださいと言いつつ、薄井にでも頼んで山本(笑月)に話してもらいなさいとも言っている。また、知人・門下生に書画を揮毫したときのメモとされる同年の「断片六〇」には、「○薄井秀一(柳ト釣スル人着色小形)」とある。

後にモダーン・ガール論を展開する薄井だが、東京朝日新聞時代に既に次のような婦人論を執筆している。

「新しい女と卵細胞」『中央公論大正2年5月号
「近代婦人思想の出発点」『中央公論』婦人問題号(大正2年7月)
「近代婦人の貞操観」『太陽』近時之婦人問題号(大正2年6月)・・・薄井長梧名義
「『予が婦人観』と僕の婦人観」『新仏教』大正2年8月号
「自覚せる新女徳の価値」『大正婦人』大正2年6月号?(未見)
「女子の潜在能力と婦徳」『新真婦人』第21号(大正4年1月)*5

大正2年8月26日付東京朝日新聞の楚人冠「カルヰザハ(下) 別荘開き」には、「一軒おいて隣の薄井長梧子」が出てくる。この頃、薄井は軽井沢に別荘を持っていたようだ。

この後の薄井については、横田さんは、山中峯太郎らが大正6年4月1日付で東京朝日新聞を追われた淡路丸偽電事件*6で薄井は逮捕されなかったが、何らかの形で事件に係わっていたことは間違いなく*7、その後の消息がたどれないとしている。しかし、阿部次郎の日記でその消息をたどることができる。同日記には、薄井が大正5年8月から7年9月にかけて、帝劇、市村座、有楽座で、漱石夫人鏡子や阿部、小宮らの門下生と観劇していることが記されている。小谷野敦久米正雄伝』でも言及された6年10月29日帝劇の藤間右衛門舞踏会で、阿部は、鏡子、久米、赤木、松岡らに会ったと書いている*8。このとき、薄井もいた可能性がある。今のところ、久米が夏目家に出入り禁止となる「破船」事件前に、久米と薄井に面識があったことの確認はできていないが、知り合っている可能性は高いと思われる。

5 渡英

大正8年10月薄井は英国へ渡ることとなる。阿部の日記によれば、

大正8年10月18日 (略)それから日本橋錦水に薄井秀一英国行送別会出席小宮松岡及び朝倉文夫*9成瀬正一坂口萬朝編輯長等と一緒になる。十時散会、夜寒し

とある。なお、北澤は『近代女性の表現』(改造社大正12年4月)で大正8年にロンドンへ来たと書いており、薄井と渡英時期が一致している。

(続く)

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東京堂書店のホームページによると、

若松英輔氏(批評家)×安藤礼二氏(文芸評論家)トークイベント
井筒俊彦―叡智の哲学―』(慶應義塾大学出版会)刊行記念
「いま、なぜ井筒俊彦か」

若松英輔(わかまつ えいすけ)
1968年生まれ。批評家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。
越知保夫とその時代」(『三田文学』、2007年)で三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。初の本格的井筒俊彦論『井筒俊彦―叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年)を発表。

安藤礼二(あんどう れいじ)
1967年生まれ。文芸評論家。早稲田大学第一文学部考古学専修卒業。現在、多摩美術大学美術学部芸術学科准教授、同芸術人類学研究所所員。『神々の闘争 折口信夫論』(講談社 2004年)で第56回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。『光の曼荼羅 日本文学論』(講談社 2008年)で第3回大江健三郎賞、第20回伊藤整文学賞受賞。

※イベントのテーマとなる井筒俊彦氏については慶應義塾大学出版会さんの「井筒俊彦入門」をご覧ください。

開催日時 7月28日(木)18:00〜20:00(開場17:45)
開催場所 東京堂書店神田神保町店6階
参加方法 参加費500円(要予約)
電話または、メール(tokyodosyoten@nifty.com)にて、件名「若松氏安藤氏イベント希望」・お名前・電話番号・参加人数、をお知らせ下さい。イベント当日と前日は、お電話にてお問合せください。電話 03−3291−5181

井筒俊彦―叡知の哲学

井筒俊彦―叡知の哲学

*1:2010年5月19日参照

*2:2007年9月8日参照

*3:ただし、「暁水記」とある。また、明治39年1月、同年9月警視庁調の「新聞紙通信社一覧表」(『原敬関係文書』第八巻)の読売新聞記者に名はない。

*4:朝日新聞社大阪本社社史編集室編『村山龍平伝』(朝日新聞社、昭和28年)

*5:薄井のこの論考については、布川清司「日本女性と教育 近代日本女性倫理思想史(1)」『神戸大学発達科学部研究紀要』5巻1号、1997年が言及している。

*6:門司発至急電として、淡路丸が玄界灘で沈没したという連絡が報知新聞東京本社へ入り、号外を出したため、株式市場は一時大混乱に陥ったが、虚報と判明した事件。東京朝日新聞の山中、阿部欽次郎、國府寺唯吉と国民新聞の記者、兜町の株の仲買人などが逮捕された。

*7:岩野泡鳴の日記大正6年4月3日の条には「新潮、小此木、前島、天弦、中央新聞を訪ふ。薄井(秀)氏に逢ひ、東京朝日のクラブで玉突と碁とをやつた」とあり、山中が朝日を追われた後も、同社に出入りしている。

*8:2010年10月23日参照

*9:薄井と朝倉については、2009年3月1日参照