神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その3)

6 北澤秀一としての活躍

薄井秀一は大正11年には帰国したと思われる。阿部の日記に、

大正11年4月13日 六時約に従つてライオンに北澤(薄井)小宮をたづね帰つたあとで一人で銀座を散歩して帰宅

とある。実は、この「北澤(薄井)」という記述で、北澤秀一と薄井秀一が同一人物と判明したのであった。大正8年10月出国、11年帰国であれば、天民が北澤の滞英期間について三年と書いていることとおおむね一致する(『人間見物』騒人社書局、昭和2年11月)。ただし、薄井が大正10年以前に帰国している可能性は否定できない。薄井は、渡英後なぜか、長梧子(昔、薄井が使用した筆名だ)、北澤長梧や北澤秀一の名前で活躍している。私は最近まで薄井が本名で、北澤は筆名だと思っていたのだが、北澤の死亡広告に父親の名前が北澤太兵衛とあるのを発見。「薄井」は養子先の名前で、その後何らかの理由により、北澤に復姓したのだろうか。

渡英後の作品としては、

長梧子(在倫敦)「英国一の人気者 エツピングの森に於ける英国皇太子の誕生祝」『読売新聞』大正10年7月25日
北澤秀一(在倫敦)「何拠に!罷業騒ぎ−スポートに熱中の英国民−」『読売新聞』大正10年7月27日〜30日
北澤秀一(在倫敦)「英国婦人と日本 ライシアム倶楽部の日本部発会式」『読売新聞』大正10年8月6・7日
長梧子(倫敦にて)「滞英雑記」『読売新聞』大正11年11月29日〜12年1月23日
北澤秀一『近代女性の表現』(改造社大正12年4月)・・・上記を再構成したもの
北澤長梧「モダーン・ガールの表現−日本の妹に送る手紙−」『女性改造』大正12年4月
エリナ・グリーン著、北澤秀一訳『三週間』新光社、大正12年5月
北澤秀一「テームス河の舟遊び」『女性』大正13年7月
北澤秀一「モダーン・ガール」『女性』大正13年8月
北澤秀一「英国婦人の誇り」『女性』大正13年10月
北澤秀一「丸ビル中心の現代文明論」『婦人公論大正14年4月
北澤秀一「東京百鬼夜行録 ショップ・ガール」『改造』大正14年4月

がある。また、大正11年10月24日付東京朝日新聞「学藝たより」には、25日今半で「浅草の会」を開催し、澤田正二郎や北澤らの講話がある旨の記事がある。このように帰国後は、薄井の名を使うのを止めたのかと思いきや、薄井長梧名義も併用されていて、次のような作品がある。

「ワイルドの贈り物 三十年間埋もれてゐた脚本」『読売新聞』大正13年10月13日
「メレデイスの家」『随筆』大正13年12月
「「丸ビルの女」の顔・服装・表現」『婦人公論大正14年4月

興味深いのは大正14年4月の『婦人公論』(「丸ビル中心の文化」号)で、北澤秀一名義と薄井長梧名義の両方の論考が掲載されている。一人二役である。

7 北澤秀一と久米正雄の関係

北澤と久米は、久米が「破船」事件で夏目家への出入りが禁止される前に面識があったと推定しているが、親しくなったのは、帰国後の大正12年晩春に日活の宣伝部長に就任してからと思われる。両者が同席した座談会としては、

「民衆藝術としての活動写真批判会」『女性』大正13年2月・・・司会・小山内薫、久米、倉橋惣三(東京女子高等師範学校教授)、権田保之助(内務省社会局嘱託)、乗杉嘉壽(文部省社会教育課長)、山田耕作、斎藤佶三(東京美術学校教授)、柴田勝衛、吉田修(成女高等女学校長)、菅原教造(東京女子高等師範学校教授)、橘高廣(警視庁検閲係長)、高野六郎(内務省衛生局防疫課長)、芦田均(外務省欧米第一課長)、北澤(日活計画部長)、帰山教正(藝術的映画製作者)、根元茂太郎(プラトン社代表員)

「演劇新潮談話会第五回(芝居漫談)」『演劇新潮』大正13年6月・・・城戸四郎、山本久三郎、北澤、小村欣一、伊原青々園、中村吉蔵、長田秀雄、久保田万太郎、久米、山本有三菊池寛

「映画の進み行く道 フランスの若き俳優ジャック・カトレン監督主演「嘆きのピエロー」合評会」『苦楽』大正14年4月・・・「良い映画を讃める会」会員久米正雄、東健而、廣津和郎、北澤、橘高廣、森岩雄、日活支配人根岸耕一

がある。「良い映画を讃める会」というのは、大正13年12月12日付読売新聞(「良い映画を褒める会」とある)によると、久米、東、近藤経一が発起人で組織したものだという*1。久米と日活との関係は、小谷野氏の方が何か知っているかもしれない。

8 あの日記に記録されていた北澤秀一の死

菅先生や女性学の研究者は気付かなかったが、北澤の死の前後は、ある作家の日記に書かれていた。

昭和2年8月13日 蚤く起き出でホテル門外の街を歩む、偶然活動株式会社の北沢氏に会ひ(略)北沢氏の紹介にて始めて国木田独歩の男乕男氏夫妻と語る、夫人は女優六条氏の妹なりと云ふ、断髪にして洋装なり、ホテルの食堂にて昼餉を倶にす、

    8月17日 北沢氏国木田夫妻と卓を共にして昼餉をなす、

国木田「乕男」夫人とは、のちに団鬼六の母となる人だろう。この時点ではまだ、離婚していなかったようだ。北沢とこの日記の筆者との関係も今後の宿題である。

昭和2年8月20日 晡時茶を喫して将にホテルを出発せむとする時、北沢氏新橋の阿嬌こずゑを携へて来る、笑語すること少時にして車来りしかば東京の再会を約して停車場に赴く

    8月24日 残暑忍ぶべからず(略)再びスートケースを提げて倉皇として上野停車場に赴くに、図らずも日活会社の北沢氏愛妓を伴ひて来るに会ふ、同じく苦熱に堪えずして北行すべしと云ふ、倶に失笑して列車に乗る(略)一同相携へて軽井沢ホテルに入る(略)

    8月25日 ホテルに帰り来るに北沢氏今暁急病遽に発し、土着の医師を招ぎ注射をなし一時静穏なりしが、今また医師来りて再診中なりとの事に驚きて其室に抵り見るに、面色既に土の如く猶温味はありしかど呼吸は絶えゐたり(略)妓こずゐ殆為すべき所を知らず、余百方之を慰撫し先電報を諸方に発す、晩間に至り北沢家の人人次第に来り、深夜亡骸を自働車にて運び去れり、この際北沢氏の細君と愛妓との応接稍ともすれば円滑ならず、居合わすもの心を労すること甚少からず、久米正雄氏日活会社々員某々氏等深更ホテルに到着す(略)久米氏食堂にて梢と共に語りあかさむと言はれしが余既に疲労に堪えず、先に辞して寝につけり、

   8月26日 午前正宗白鳥ホテルに来り久米氏を訪ふ、余旅中其情郎を喪ひたる梢子の心中を推察し久米氏と共に勧誘して強ひて街を散歩す(略)午下二時の列車にて久米氏梢を扶けて帰京す、

白鳥は読売新聞記者時代に薄井と同僚だったが、その後も交際を続けていたのだろうか*2。この日記により、久米が北澤の亡くなった日に駆けつけ、翌日北澤の愛妓を送って帰ったことが判明し、北澤とは相当親しかったことがうかがえる。昭和2年9月10日付読売新聞に、映画関係の各団体が発企者となり14日伝通院で追悼法要、式後同院前の西川洋食部で追悼会を開催する旨の記事がある。日記の筆者は出席しなかったようだが、久米は出席したであろうか。

さて、この日記だが、私のブログの常連である文学好きの人、特に小谷野とん氏、盛厚三氏、林哲夫氏、松本彩子さん、広島桜氏、晩鮭亭日常氏、黌門客氏、かぐら川氏、菅原健史氏らには文体から既にわかっているだろう。『断腸亭日乗』として知られる日記である。


(あとがき)北澤の「映画本質論 我国の製作者及び批評家に送る」は、『映画時代』昭和2年9月号から連載を開始したが、10月号・11月号に(二)・(三)が遺稿として掲載された。また、北澤の葬儀が行われた長野市の寺や娘の名前も別途判明している。葬儀では東京朝日新聞社グラフ部次長だった星野辰男(筆名・保篠龍緒)の弔電のみが代表として披露されたという。いつか長野で現地調査して、本稿の(その4)を書く日が来るであろう。

*1:この他、北澤と映画関係の団体としては、大正15年11月9日付東京朝日新聞夕刊によると、同月7日映画事業に関する人々の社交機関「大日本映画クラブ」が、森岩雄、星野辰男、北澤らの映画批評家、柳井義男、田島太郎、橘高廣らの検閲官、アーベック、コクレン、オーコンナーらの配給者、日活の根岸(耕一)支配人、西本(聿造)営業部長、松竹キネマの堤(友次郎)常務、城戸(四郎)所長、山本嘉一、井上正夫らの発企で発足したという。

*2:ただし、白鳥は、北澤の死を聞いて駆けつけたわけではなく、昭和2年7月15日・16日付読売新聞「軽井澤にて」によると、梅雨の頃から軽井沢に滞在していた。