神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

田多井四郎治のウエツブミ研究会と田中治郎左衛門

今日は某先生の書庫に唖然・騒然・愕然とした一日であった。
さて、『丸山敏雄全集』17巻(倫理研究所、昭和54年5月)にウエツブミ研究会が出てくる。

(昭和十七年)
五月二十三日(土)晴
(略)
一時に飯田橋から下りて、営林局会議室で、ウエツブミ研究会に出席して、久方ぶりに学者の古典研究をきく。大胆なる所論は快く、又日本こそ忠なりといふは我が意を得た。すべて田中氏の御厚意による。田多井氏にも其他の方にも、お目にかゝる。一時半より四時半迄。
五月二十七日(水)雨
(雨)
午前八時半、田多井先生のお宅に、田中氏、小寺氏、吉田氏、共に十二時迄、十年間の研究の結果をきく。実によろこばしき事也。深く学的努力と清高の御志に敬意を表す。

「田多井」は田多井四郎治、「小寺」は小寺小次郎。「吉田」は、索引によると吉田幹彦。「田中」は索引及び注によると、田中治郎左衛門で、「元ひとのみち教団の信徒で、中野中学校の理事などを歴任。東京で織物商(田端屋)を営んでいた」という。検索すると、コトバンクにも載っている人で、麗澤大学図書館に田中治郎左衛門文庫があるようだ。偶然だが、別のところにもその名前を発見した。
『神秘之日本』終結号(神秘之日本社、昭和15年11月)は「酒井勝軍先生追悼号」だが、その「弔問弔辞を賜はりたる御芳名」や「御香奠、御供物を賜はりたる御芳名」に田中の名前があるほか、「酒井先生の思出」を寄稿している。そこには、

私が先生と相識つたのは、書物の上では大正の震災後間も無く、御目にかゝつたのは、昭和七、八年頃だつたかと思ひます。(略)北上梅石といふ匿名で書かれた今は既に故人となられました樋口艶之助氏の著書「猶太禍」に興味を持ち(略)続いて酒井先生の「猶太人の世界征略運動」「猶太民族の大陰謀」等、次ぎ/\に畢生の努力を傾けて書かれた新著に目を通し(略)

酒井の周辺に天津教や大本の信者がいたことは知られていたが、ひとのみち教団の信者もいたことになる。なお、同追悼号に名がある人については、「酒井勝軍の死とトンデモない人達」、「その後の島津治子」参照。