神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

 日露戦争従軍記者としての中山太郎


中山太郎「憶出の人々」(『書物展望』第10巻第12号、昭和15年12月1日)によると、

私が、大阪の新聞へ行くことがきまると、東日の松内冷洋氏から、岩野泡鳴君が樺太の蟹の罐詰で失敗し困つてゐるので入社させてくれないかとの話で、私は泡鳴氏に会ひ月給やら旅費やら、仕事の受持やらをきめて一と足さきに出発した。(略)
私は、日露戦役に従軍記者として、奥(保鞏)大将の率ゐた第二軍に属し、(略)田山花袋氏は吾々には別に、第二軍司令部附の写真班員として従軍し、数日前から大腸カタルにかゝり、此の地の野戦病院に収容されて居るとのことであつた。これを聴いた坪谷水哉氏が『せめて花袋君にスープだけでも頂かせてやりたい』と、その料理を病院に持参するといふので、私は一緒に出かけて往つた。これが花袋氏との初対面であつた。氏は案じたとは違ひ頗る元気で洋食を平げ、翌日は支那馬車に揺られながら吾々と共に前進した。


民俗学者として知られる中山だが、新聞記者として泡鳴や花袋とも関係していたのだね。花袋の「第二軍従征日記」には中山の名は出てこないが、泡鳴の「池田日記」の明治45年5月14日の条に「夕方、出社し、中山氏を訪ふ。同氏の話で、僕の自由勤務を正確にするには、表面、社外の人−客員とでも云ふ名義−になるがよからうかとのことだ」と出てくる。


それから、4月5日に長谷川天溪(本名・誠也)が中山太郎パトロンだったことに言及したけれど、この二人は大槻憲二の精神分析研究会のメンバーでもあったね(昨年4月19日参照)。


(参考)中山は、明治37年時点では報知新聞社、明治45年時点では北浜大阪新報社勤務。なお、『三田村鳶魚全集』第25巻の「編集後記」によれば、三田村の明治44年の日記の人名録に「大阪市東区今橋三丁目一〇(北浜大阪新報) 中山太郎」とあるという。

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『編集会議』6月号は桜庭一樹特集。最初の写真を見ると、基本的には美人だなあと思う。書店内の写真があるが、これはどこだろう?わからん・・・


週刊朝日』にでっかく岡崎武志『女子の古本屋』が出てた。