今一つの両先生(引用者注:川面凡児と今泉定助)の間の異説について。
私は、かつて神代文字なるものについて、今泉先生の所見を質した。川面凡児先生は、神代文字の存在を肯定する論者(日本古典真義)なのだが、今泉先生は消極的否定的であった。先生は、詳細刻明に、国語学上、神代文字なるものの肯定しえない論証をして下さった。神代文字については、平田篤胤、丸山作楽翁なども熱心な肯定論者だったので、かねてから、いろいろと検討されたが、あれは到底肯定し得るやうなものではないといふのである。そのころ裁判所でも、神代文字文献の真偽が論ぜられていて、東大の橋本博士が、否定論の証言を提出したが、それについて橋本博士が、今泉邸をたづねて来たらしい。先生は「橋本は、神道などの分る男ではないけれども、音韻や文字の国語学の研究は確実だよ、篤学な男だ、私も、この論証に限ってはかれの論証に異存ないと返答した」とも語られた。私は、先生の論証をきいて自信をえたので、そのころ雑誌「公論」に神代文字論者に反対の論文を書いたことがある。
(参考)同書によれば、大正13年4月、頭山満、野田卯太郎、肥田景之、杉山茂丸、小橋一太、高山昇、今泉定助、篠田時化雄、葦津耕次郎(葦津珍彦の父)の9人が発起人となって、「敬神護国団」なる団体を創設したという。頭山と交流があれば、杉山茂丸の名前が出てきても、今更驚かないものである。
昭和41年に財団法人皇道社は、日本大学に合併し、同大学内に今泉研究所を設け、研究機関として発足したが、当初の所員は、顧問児玉誉士夫など5名、刈屋守弘(委員長)、葦津珍彦、高橋昊など10名。皇道図書館のメンバーのうち、少なくとも刈屋、高橋は戦後日本大学に在職していたのだ。
また、戦前の皇道社について、「刈屋常務理事の監督の下に、研究関係では、河飯捨蔵氏が退職したあとを、山口五郎、高橋昊、小久保勝久、宮原昌勝等で埋め、庶務関係では、小田島養太郎、岩隈虎雄、大川留次郎、並木軍平、川原弘等が順次職を継いで常時二名はいた。」という。
ここで、ようやく並木軍平の名前を見出すことができた。しかし、戦後の並木については何ら得るものはなかった。