神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治25年毛利元徳公爵邸で落語を披露する快楽亭ブラックーー『跡見花蹊日記』からーー

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 『跡見花蹊日記』(跡見学園)には、思わぬ人物・事物がしばしば登場する。たとえば、
・「跡見花蹊が観た明治20年の工科大学校における活人画ーー京谷啓徳『凱旋門と活人画の風俗史』(講談社選書メチエ)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記
・「毎日電報記者管野須賀子と跡見花蹊 - 神保町系オタオタ日記
・「サンマー英学塾 - 神保町系オタオタ日記
などで紹介したところである。今回紹介するのは、第2巻から手品師・講談師・落語家の快楽亭ブラックである。

(明治二十五年)
十一月十九日 (略)毛利公爵*1園游会、午後三時。
(略)午下二時より、同桃子、往毛利邸。公爵及令夫人、御子息六郎子(略)又遊戯所、手品及英人ブラツク有落語(略)

 小島貞二快楽亭ブラック伝:決定版』(恒文社、平成9年8月)によれば、明治24年からそれまでの「英人ブラック」を改め「快楽亭ブラック」を名乗っていたはずである。しかし、まだ定着していなかったのか、ここでは「英人ブラツク」である。また、ブラックは明治9年から手品の実演をしていたので、文中の手品もブラックが演じたのだろう。快楽亭ブラックの詳細年譜を作っている人がいたら、入れておいてください。
参考:「明治30年杉村楚人冠と三島海雲が京極で見物した快楽亭ブラック?の催眠術 - 神保町系オタオタ日記

天神さんの古本まつりで岡本橘仙と金子静枝に出会うーー山崎青雨編『うた沢全集』(岡野楽器店、大正8年)からーー

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 今年も天神さんの古本まつりの100円均一台でホクホクした人が多かっただろう。文庫本の棚は小さかったが、変わった本が多かった。今回は、山崎青雨編『うた沢全集』(岡野楽器店、大正8年10月)を紹介しよう。
 「うた沢」にあまり関心はないが、「エコール・ド・プラトーンの時代に哥澤芝虎編『哥澤撰』(クラブ化粧品本舗) - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあるのと、楽器店の発行本が珍しそうと購入。作詞者名を見てみたら、岡本橘仙が2曲、金子静枝が1曲載っていて驚いた。岡本は「集古会会員としての旅館萬屋主人岡本橘仙と夏目漱石 - 神保町系オタオタ日記」や「岡本橘仙や金子竹次郎らの読書会記録『列子天瑞篇之研究』ーー黒田天外の旧蔵書かも?ーー - 神保町系オタオタ日記」などで言及したことがある。京都の文芸芸妓磯田多佳と親しかった旅館萬屋の主人である。金子は「日出新聞記者金子静枝と意匠倶楽部ーー京都市学校歴史博物館における竹居明男先生の講演への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した日出新聞記者である。
 岡本は、『集古会誌』に蒐集分野が「俗曲に関するもの」とあったが、蒐集だけでなく自ら作詞もしていたことになる。金子が作詞をしていたとは新知見かもしれない。この2人はおそらく親しかったと思われる。杉田博明『祇園の女:文芸芸妓磯田多佳』(新潮社、平成3年1月)116頁によれば、岡本は明治21年3月『美術叢誌』を創刊。執筆者には宇田川文海、坪内逍遥らと共に金子錦二(静枝の本名)がいた。岡本の甥が「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」や「『京都人物山脈』(毎日新聞社)に万屋主人金子竹次郎 - 神保町系オタオタ日記」などで言及した谷崎潤一郎と親しかった金子竹次郎である。2人の金子はおそらく面識があったと思われるが、今のところ確認できていない。
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四天王寺の骨董市で買った20大辞典完成祝賀の『郁文舎辞書目録』(明治39年)ーー景品に回転書棚ーー

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 四天王寺の骨董市にはしばらく行っていない。絵葉書を出品していた方は最近亡くなられたそうなので、久しぶりに行っても寂しいかもしれない。最後に行ったのは、「本おや」*1高橋輝次氏の『雑誌渉猟日誌』(皓星社)出版記念イベントがあった時の平成31年4月21日だろうか。このところ絶好調のpieinthesky氏から『郁文舎辞書目録』(48頁)を買ったと思う。
 この目録は、郁文舎が20大辞典の完成を記念して発行したものである。辞典*2明治36年~39年に発行されていて、景品の中に『明治四十年懐中日記』があるので明治39年発行と思われる。内容は、各辞典の内容見本と景品の案内である。
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 『絵画辞典』と『家庭辞書』の写真も挙げておく。
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 景品の第3等は回転書棚(定価7円)で、欲しくなる。もっとも、地震があったら直ぐに倒れそうな構造だ。
参考:郁文舎については、小田光雄氏の「古本夜話1105 郁文舎と内藤耻叟、三輪文次郎『一覧博識漢学速成』 - 出版・読書メモランダム」参照
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*1:堂島の古書店「本は人生のおやつです‼」

*2:タイトルは、「~辞典」「~辞林」「~辞書」のほか、『会玉篇大全』『校刻日本外史

天才的頭脳の仲小路彰も騙された源義経=ジンギスカン説ーー天神さんの古本まつりで入手した『成吉思汗戦史』(戦争文化研究所)からーー

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 天神さんの古本まつりも本日で終了した。いつものことながら、特に100円均一台が素晴らしかった。今回は、駱駝堂から300円で買った仲小路彰『成吉思汗戦史』(戦争文化研究所発行・世界創造社発売、昭和14年3月)を紹介しよう。「世界興廃大戦史」シリーズの東洋編の第11巻である。このシリーズが数冊棚に出ていた。モンゴル帝国の成立史に関心はないが、目次を見ると「成吉思汗・源義経論」が載っているので、購入。
 仲小路は、「欽定古今図書集成」の『輯勘録』中の乾隆帝序「朕姓源、義経之裔、其先出清和故号国清」の存否、末松謙澄『義経再興記』、小谷部全一郎『成吉思汗は源義経也』に言及した上、次のように書いている。

 固より義経と成吉思汗の同一説は重大なる史的問題であり、軽々に両者の同一を結論するには、なほ精密周到なる研究、検索をなすべきは勿論である。しかもこの問題は、決して単なる空想的憶説、小説的虚構独断論となすには、余りに史的事実の伏在するものあるを知らねばならない。
 (略)かの源義経の事蹟が、日本の文献の中に無いことの理由で、これが蒙古渡航、成吉思汗の問題が荒唐無稽であるとすることに、益々賛同し得ないことを知るべきである。兄頼朝に追捕されんとする義経が、その自らの最後を偽はり、その行衛を不明にしたことは、余りに当然である。

 源義経ジンギスカン説に対してやや慎重な立場を取りつつ、好意的な意見である。そして、同時期に創刊された『戦争文化』(戦争文化研究所発行・世界創造社発売)のアジア問題研究所「東亜維新戦の日本=支那史的理念ーー支那人は日本人なりーー」は源義経ジンギスカン説を明確に採用していて、おそらくこれも仲小路の執筆と思われる*1。仲小路はこの「世界興廃大戦史」シリーズの1冊である『上代太平洋圏』(昭和17年5月)ではムー大陸説を採用していて*2、トンデモない説を色々信じていたようだ。
 ところで、『昭和社会経済史料集成』10巻(大東文化大学東洋研究所、昭和60年8月)を見ていたら仲小路が出てきた。海軍大学校研究部の富岡定俊大佐が作成した「総力戦研究所嘱託トシテ推薦名簿」である。「権威者」からは、和辻哲郎本位田祥男、三枝茂智の3名、「少壮有為ノ学者」からは大河内一男高山岩男、仲小路、小島威彦ら8名が選ばれている。そして、仲小路については、「戦争文化研究所ノ頭脳的中心 天才的頭脳ヲ有ス」と説明があった。天才的頭脳ではあったが、トンデモには騙されてしまったようだ。
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北野天満宮の骨董市で見つけた明治期の『家庭週報』ーー成瀬記念館で日本女子大学創立120周年記念展ーー

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 尾崎翠の年譜*1を見ていると、大正8年4月日本女子大国文科に入学し、5月週刊校報『家庭週報』515号に「木蓮」を発表、6月同紙519号に短歌「富春園にて」を発表している。『家庭週報』は、明治37年4月創立の同窓会「桜楓会」の機関紙で、同年6月25日に創刊された。同紙を北野天満宮の骨董市で買った覚えがあるので、大量の積ん読本から発掘してきました。我ながら何でも持ってますね。
 家蔵の『家庭週報』は、11号,明治37年11月12日と19号,38年3月11日である。後者には、国文学部教授の三宅龍子(花圃)の名前が見える。
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 ところで、一面の左手に地球を持つ女性の絵が気になる。どこかで見たような気がする。オリジナルなのか、ミュシャ等の借用なのか。木股先生なら分かるだろうか。
 広告も見ていると発見があった。牛込区西五賢軒町の写真学校。これは、黒岩比佐子さんが『編集者国木田独歩の時代』(角川学芸出版、平成19年12月)で調べていた近事画報社の女写真師「梅子」が学んだ女子写真伝習所(女子写真学院)ではないですか。
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 なお、日本女子大学は今年が創立120周年で11月24日~3月4日成瀬記念館で記念展があるようだ。→「年間予定 | 成瀬記念館 | 日本女子大学
  

*1:『定本尾崎翠全集下巻』(筑摩書房、平成10年10月)

四天王寺秋の大古本まつりで浅井忠『新編自在画臨本』(金港堂書籍)を掘り出すーー京都工芸繊維大学美術工芸資料館で「美術の教育/教育の美術」展を開催中ーー

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 京都工芸繊維大学美術工芸資料館で開館40周年企画展第2弾「美術の教育/教育の美術」を開催中。11月6日(土)まで。有料*1だが、72頁の豪華図録は無料*2。私は先日観てきた。
 展示品や図録掲載の図案関係の古書を見ていて、四天王寺秋の大古本まつりで出会えたらいいなあと思っていたら、初日の8日(金)に本当に見つけてしまった。Cosyo Cosyoの和本300円台から。今回ここは、美術関係、仏教関係等で掘り出し物が多かった。冒頭に挙げた写真の浅井忠『新編自在画臨本』第1編(金港堂書籍、明治39年12月初版・40年3月訂正再版)が、見つけた図案教育書である。図録には、工繊大附属図書館所蔵本が出ている。
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 展覧会を観た直後に見つけるのは奇跡と言ってもいいだろうが、古本の世界では割とよくあることではある。本自体も教科書なので、それほど珍しくはなさそうだ。ただし、国会図書館には第4編しかない。「近代教科書デジタルアーカイブ」では全8編が公開されている。また、日本の古本屋には第1編が2店、その他の編が5店で出品されたが、すべて売り切れていて人気があるようだ。
 図録の解説には、次のようにあった。

 これらの教科書が京都高等工芸学校で使用されていたことを示す資料は残っていない。『訂正浅井自在画臨本』*3によると、浅井自身が緒言で「中学校教授要目ニ準拠」して「中等程度ノ諸学校ノ図画教科書」とするために編纂したと記しており、専門教育機関である京都高等工芸学校では使用されなかった可能性が高い。

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*1:一般200円/大学生150円/高校生以下無料

*2:過去の展覧会の図録で在庫のある分の見本も展示されていて、申し出れば無料で貰える。

*3:浅井の死後、都鳥英喜と渡辺審也が明治42年に『新編自在画臨本』を改訂したもの

予言者隈本有尚の第七官と尾崎翠の「第七官界彷徨」ーー石原深予『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス)からーー』

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 石原深予『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス、平成27年3月)を御恵投いただきました。ありがとうございます。石原先生との初対面は、人文研で日本心霊学会(人文書院の前身)関係の作業があった時だったか。挨拶で「尾崎翠の作品『第七官界彷徨』で使われている『第七官』について調べています」とおっしゃっていた(追記:これは私の記憶違いだったようで、失礼しました)のが、印象的である。確か新稲法子先生(@niina_noriko)がTwitterで石原先生に言及していたので、御名前は存じ上げていた。
 本書第1章「『第七官』をめぐってーー明治期から昭和初期における「第七官」の語誌と尾崎翠の宗教的・思想的背景ーー」が特に注目される。昭和6年に発表された尾崎の「第七官界彷徨」の「第七官」は従来尾崎の造語とされてきた。しかし、

(略)管見の限りにおいては「第七官(感)」という語は、明治半ばに「七官」という語として井上円了によって仏教の文脈で用いられたのが早い例である。その後明治四十年代に内村鑑三が「第七感」という表記で用いる。これらについては先に「第六官(感)」の用例のところで述べた用法と同様である。同じく明治四十年代に骨相学の文脈で、はじめて「第七官」という表記が用いられた。(略)

 この初めて「第七官」という表記を使用したのが、『性相』16号(性相学会、明治43年1月)掲載の「第六官及び第七官」である。冒頭に写真を挙げた雑誌である。同誌は2冊持っていて、古本まつりの均一台で見つけた気がする。
 石原著によれば、「この記事には署名がないが、河西善治氏によると隈本有尚(一八六一ー一九四三)の執筆」らしい。隈本は、東京大学理学部数学物理星学科を出た天文学者で、占星術家でもあった*1。最近読んだ高橋箒庵『萬象録』巻3(思文閣出版、昭和62年6月)に、この隈本の予言が出てくるので紹介しておこう。

(大正四年)
七月三十一日
(略)
[天文学者隈本氏の政事予言]
 さるにても本月初め天文学者隈本有尚氏が、現内閣は八月九日を以て顛覆すべしと予言したる時世人は一笑に付したりしに、八月九日をを待たず昨日内閣辞職あり、或は其辞職の聴許せらるゝが八月九日頃なるやも知れず、氏は何に依て斯くの如き予言を為したるにや。座客の一人、隈本は司法官中に知己ありて涜職事件の進行が到底内閣の存在を許さずと云ふ事を知り得たるに非ずやと云ふ。隈本氏は明治十六、七年頃、大学を出でたる許りにて諸所の演説会場にて天文学の演説を為したるを余は一度聴聞したる事あり。演説中眉を揚げ眼を動かし其口調講談師の如く、広大無辺なる天体の中に様々の星が出没する有様を面白く語り出でゝ聴衆を飽かしめざる工合、一種奇矯なる人物と思ひしが其後大学の教授として長く学界に在り、今は罷めて閑居すとなり。

 河西『『坊っちゃん』とシュタイナー:隈本有尚とその時代』(ぱる出版、平成12年10月)によると、隈本は明治16年星学科を修了し*2東京大学理学部星学教場補助になっているので、高橋が講演を聴いたのはその頃だろうか。また、高橋の前記日記の書かれた時期は第一次世界大戦中で、隈本は『丁酉倫理会倫理講演集』に「欧州戦乱の将来」、『廿世紀』に「天文より見たる交戦国の運命予言」を掲載して、ドイツの敗北や第二次世界大戦の予言をしているという。もっとも、こういう「予言」は当たったものばかり列挙しても意味がなく、全体を見てどの程度の的中率だったのかが重要だろう。
 石龍子が主宰した「性相学会」は「せいそうがっかい」と読む。これに対して石原著によると、

 なお法相宗倶舎宗の学問を性相あるいは性相学というが、この意味では「しょうそう」あるいは「しょうぞうがく」と訓むのが通例である。(略)

 「明治24年京都婦人協会における島地黙雷の演説ーー村上護『島地黙雷伝』(ミネルヴァ書房)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『東洋新報附録』242号、明治24年9月30日に「性相学」の研究のため曹洞宗僧侶が真宗大谷派大学寮への入学を許可されたとの記事があるが、ルビが「しやうさうがく」とあって、後者の意味の「性相学」と分かる。
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*1:山本英輔と交流があったことについては、「海軍大将山本英輔のトンデモ遍歴 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:明治15年菊池大麓学部長の面前で卒業証書を破り捨てたため、卒業は翌年になった上、学士号は授与されなかったという。