神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

予言者隈本有尚の第七官と尾崎翠の「第七官界彷徨」ーー石原深予『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス)からーー』

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 石原深予『尾崎翠の詩と病理』(ビイング・ネット・プレス、平成27年3月)を御恵投いただきました。ありがとうございます。石原先生との初対面は、人文研で日本心霊学会(人文書院の前身)関係の作業があった時だったか。挨拶で「尾崎翠の作品『第七官界彷徨』で使われている『第七官』について調べています」とおっしゃっていた(追記:これは私の記憶違いだったようで、失礼しました)のが、印象的である。確か新稲法子先生(@niina_noriko)がTwitterで石原先生に言及していたので、御名前は存じ上げていた。
 本書第1章「『第七官』をめぐってーー明治期から昭和初期における「第七官」の語誌と尾崎翠の宗教的・思想的背景ーー」が特に注目される。昭和6年に発表された尾崎の「第七官界彷徨」の「第七官」は従来尾崎の造語とされてきた。しかし、

(略)管見の限りにおいては「第七官(感)」という語は、明治半ばに「七官」という語として井上円了によって仏教の文脈で用いられたのが早い例である。その後明治四十年代に内村鑑三が「第七感」という表記で用いる。これらについては先に「第六官(感)」の用例のところで述べた用法と同様である。同じく明治四十年代に骨相学の文脈で、はじめて「第七官」という表記が用いられた。(略)

 この初めて「第七官」という表記を使用したのが、『性相』16号(性相学会、明治43年1月)掲載の「第六官及び第七官」である。冒頭に写真を挙げた雑誌である。同誌は2冊持っていて、古本まつりの均一台で見つけた気がする。
 石原著によれば、「この記事には署名がないが、河西善治氏によると隈本有尚(一八六一ー一九四三)の執筆」らしい。隈本は、東京大学理学部数学物理星学科を出た天文学者で、占星術家でもあった*1。最近読んだ高橋箒庵『萬象録』巻3(思文閣出版、昭和62年6月)に、この隈本の予言が出てくるので紹介しておこう。

(大正四年)
七月三十一日
(略)
[天文学者隈本氏の政事予言]
 さるにても本月初め天文学者隈本有尚氏が、現内閣は八月九日を以て顛覆すべしと予言したる時世人は一笑に付したりしに、八月九日をを待たず昨日内閣辞職あり、或は其辞職の聴許せらるゝが八月九日頃なるやも知れず、氏は何に依て斯くの如き予言を為したるにや。座客の一人、隈本は司法官中に知己ありて涜職事件の進行が到底内閣の存在を許さずと云ふ事を知り得たるに非ずやと云ふ。隈本氏は明治十六、七年頃、大学を出でたる許りにて諸所の演説会場にて天文学の演説を為したるを余は一度聴聞したる事あり。演説中眉を揚げ眼を動かし其口調講談師の如く、広大無辺なる天体の中に様々の星が出没する有様を面白く語り出でゝ聴衆を飽かしめざる工合、一種奇矯なる人物と思ひしが其後大学の教授として長く学界に在り、今は罷めて閑居すとなり。

 河西『『坊っちゃん』とシュタイナー:隈本有尚とその時代』(ぱる出版、平成12年10月)によると、隈本は明治16年星学科を修了し*2東京大学理学部星学教場補助になっているので、高橋が講演を聴いたのはその頃だろうか。また、高橋の前記日記の書かれた時期は第一次世界大戦中で、隈本は『丁酉倫理会倫理講演集』に「欧州戦乱の将来」、『廿世紀』に「天文より見たる交戦国の運命予言」を掲載して、ドイツの敗北や第二次世界大戦の予言をしているという。もっとも、こういう「予言」は当たったものばかり列挙しても意味がなく、全体を見てどの程度の的中率だったのかが重要だろう。
 石龍子が主宰した「性相学会」は「せいそうがっかい」と読む。これに対して石原著によると、

 なお法相宗倶舎宗の学問を性相あるいは性相学というが、この意味では「しょうそう」あるいは「しょうぞうがく」と訓むのが通例である。(略)

 「明治24年京都婦人協会における島地黙雷の演説ーー村上護『島地黙雷伝』(ミネルヴァ書房)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『東洋新報附録』242号、明治24年9月30日に「性相学」の研究のため曹洞宗僧侶が真宗大谷派大学寮への入学を許可されたとの記事があるが、ルビが「しやうさうがく」とあって、後者の意味の「性相学」と分かる。
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*1:山本英輔と交流があったことについては、「海軍大将山本英輔のトンデモ遍歴 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:明治15年菊池大麓学部長の面前で卒業証書を破り捨てたため、卒業は翌年になった上、学士号は授与されなかったという。