神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日出新聞記者金子静枝と意匠倶楽部ーー京都市学校歴史博物館における竹居明男先生の講演への補足ーー

先日京都市学校歴史博物館で竹居明男同志社大学名誉教授の講演「『日出新聞』記者金子静枝の奮闘の生涯」を拝聴した。これまで京都関係の事典類に立項されてこなかった金子の研究*1に対する先生の溢れる熱意が伝わる講演で素晴らしいものであった。竹居氏の『『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都ーー明治二十一年古美術調査報道記事を中心にーー』(芸艸堂、平成25年11月)は大分前に読んでいて、金子が明治21年日出新聞(『京都新聞』の前身)記者として、九鬼隆一・浜尾新・岡倉覚三・フェノロサらの近畿地方宝物調査に同行したことは覚えていたが、本名が錦二であることや詳しい経歴を忘れていた。講演であらためて金子の詳しい生涯を知ることができた。レジュメに「金子静枝の生涯をたどるーー略年譜(稿)ーー」(以下「年譜」という)が記載され、講演もこれにしたがって説明がなされた。帰宅後、拙ブログ「明治期の京都における染織図案史の修正を迫る『京都図案会誌』を発見」で紹介した『京都図案会誌』に金子が出ているかもしれないと思い調べてみると、年譜に記載のない事績があった。略年譜なので記載を省略したものもあるかもしれないが、紹介しておこう。
・『京都図案会誌』2号、明治37年7月の「時報
「関西美術会総会」と題し、同会第4回総会が6月11日市議事堂で開催され、錦二が評議員の一人に選任された旨の記載がある。年譜では明治34年6月に関西美術会が発会し、幹事となったことは記載されているが、本件は記載がない。
・『京都図案会誌』3号、明治37年9月の「時報
南禅寺畔の顔見会」と題し、7月4日南禅寺畔の旧順正書院で開催された島華水、岡本橘仙らが発起の顔見会に錦二が出席した旨の記載がある。
・同号同欄
「意匠倶楽部」と題し、錦二が意匠倶楽部を設立し、7月15日祇園鳥居本楼で発会式を挙げ、金子を主幹に広岡伊兵衛、伊東陶山を会計に推薦したこと、木下長嘯子の歌仙堂を再興し*2会員が随時会合できるようにする旨の記載がある。レジュメでは「京都意匠倶楽部を興して市内の優逸したる工芸家のみを糾合して月次会を開き」云々の記事*3などは紹介されたが、年譜に意匠倶楽部の設立についての記載はない。なお、金子が明治37年に意匠倶楽部を設立したことは、平光睦子『「工芸」と「美術」のあいだーー明治中期の京都の産業美術ーー』(晃洋書房、平成29年3月)の「「図案家」と「図案」」でも言及されていて、『京都美術協会雑誌』145号、明治38年*4に「意匠倶楽部成る」という記事があるらしい。金子と京都図案会の関係はよくわからない。明治37年の会員名簿(『京都図案会誌』2号)や明治40年の会員名簿(『京都図案』2巻1号)に名前はないが、同誌4巻2号、明治42年2月には訃報が掲載され、「本会の展覧会を始め公私の審査員として公明の審査をなし斯界を益すること多大なりし」とある。
以上、竹居先生の年譜に若干補足してみました。この他、「ざっさくプラス」によると、明治27年の『風俗画報』への寄稿などもあるようで、まだまだ金子については研究の余地がありそうだ。

*1:竹居氏が金子を研究するきっかけとなったのは、昭和55年8月25日北野天満宮の縁日で見つけた「金子静枝」の署名、「金子文庫」の蔵書印がある5冊のスクラップブックで、『日出新聞』の報道記事を貼り付けたものであったという。ちなみに、2万円したらしい。

*2:歌仙堂は金子が当時住んでいた祇園の万寿小路に再建され、その後高台寺円徳院に移築された。竹居著に写真が掲載されている。

*3:香取秀真「金子静枝の伝記」『画説』42号、昭和15年6月。

*4:追記:洲鎌佐智子「京都美術協会雑誌の目録ーー人物編・展覧会編・団体編ーー」『朱雀』10集、京都文化博物館、平成10年3月によると、『京都美術協会雑誌』145号の発行は、正しくは明治37年8月。