神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記

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最近こっそりと追いかけているのが、京都にあった文人宿万屋の主人金子竹次郎である。谷崎潤一郎が初めて京都に来た時に知り合った人物でもあって、小谷野敦谷崎潤一郎伝:堂々たる人生』(中央公論新社、平成18年6月)にも藝妓磯田多佳女の愛人岡本橘仙の甥として名前が出てくる。経歴は、『昭和人名辞典Ⅱ』3巻(西日本篇)から要約すると、

金子竹次郎 有限会社万屋社長
京都市中京区三条小橋西入ル
明治2[ママ]7年8月1日生 京都市出身
同志社大経済科卒、在学中に徳富蘇峰に師事
正徳享保の頃初代万屋甚兵衛が三条中島に旅籠屋を始めて以来の8代目
弓道を五条の芝田に、絵画を石川欣一郎に師事
目下建築、庭園に趣味を有し、研究中。チャチール会会員

これに付け加えれば、『同志社校友会名簿昭和三十六年度』(同志社校友会、昭和36年12月)によると明治41年卒である。吉岡書店で300円で買った『京都』30号(白川書院、昭和28年4月)の臼井喜之介「宿の名をたづねて」でも紹介されていた。

[萬家]
(略)
萬家はこの辺りでも古く、慶長や元禄時代の出版物にも名前が出て居り、岡田播陽氏が、「近江商人」の芝居を買いたシナリオの中にも熊沢蕃山がここへ泊る場がある。
同志社のこと以来、徳富蘇峰氏がここの定宿であり、先日も九十の齢で入洛宿泊されたことは京童に親しい。夏目漱石もここへ来たらしく、「草枕」の中に記事がみえる。
 (京三条小橋西・電本四三六)

漱石の「草枕」に出てくるのは万屋という酒屋なので勘違いだろう。ただし、漱石の日明治42年10月15日の条に「三条小橋の万屋へ行く。小さな汚い部屋へ入れる。湯に入る」云々とあるので、泊まったことは間違いない。
『京都』には、臼井による金子からの聞き書き「京の宿」も載っていた。

吉井勇氏や谷崎潤一郎氏、それに長田幹彦氏との交遊は、若い時、私も文学にあこがれてゐた三十歳前後の時代のことで、その頃はよく一緒に飲み歩いた。しかし、先生たちの酒は、今から思ふと、一つの試練であり、遊蕩もまた文学をつちかふ大切な道場であつたやうに思ふ。

そして、ある日、長田と夜の2時か3時まで痛飲して、一旦別れてから、そっと長田の下宿を襲ったエピソードを記している。抜き足で部屋の近くに行くと、深夜の部屋に灯がついていて、さらさらと原稿用紙にペンを走らす音がした。普通なら酔い疲れて眠ってしまう所を、感興が湧けば再び心を新たにして筆をとる姿に胸を打たれ、そのまま足音をしのばせて帰ったという。
長田や谷崎らとの交遊については、『文学散歩』4号(雪華社、昭和36年4月)の座談会「祇園の文学」でより詳しく述べている。谷崎の印象については、江戸っ子が来たと思ったとか、金子の部屋にあった伝又兵衛の寛永屏風を一生懸命見てるので、こういうことが分かる人かと思ったという。この座談会で驚いたのは、谷崎らが京都で遊蕩していた時期の日記が残っていると発言していることである。昭和36年当時残っていた日記、金子は39年6月に81歳で亡くなるが、今もどこかに残っているだろうか。そして、そこには漱石や谷崎が登場するのであろうか。

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

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