神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

第一高等学校教授の職を女で棒に振った内藤丈吉と中山岩太の妻中山正子ーー辻直人『近代日本海外留学の目的変容』(東信堂)への補足ーー

f:id:jyunku:20210831200850j:plain
 辻直人『近代日本海外留学の目的変容:文部省留学生の派遣実態について』(東信堂、平成22年11月)を読んでみた。本書は、明治8年から昭和15年までの文部省留学生3,180人のデータベースを作成し、更に大学史史料や外交文書等を駆使して、戦前期の文部省留学生派遣の量的、質的変化を丹念に解明したものである。公職追放者についても、データベースを作成して研究していただきたいものである。もっとも、公職追放者の方は20万人を超えるので、1人で作成するのは困難かもしれない。共同研究が期待されるところである。
 さて、本書101頁で懐かしい名前に出会った。明治28年から大正8年までの間に文部省直轄の高等学校から派遣された12人を表にしていて、このうち10人が帰国後他校へ異動した。「異動しなかった二人のうち一人は、留学途中何らかの理由で留学を免除されており、本来なら帰国後他校へ赴任していた可能性はある」としていて、この人物が内藤丈吉であった。
 内藤は、「岡本太郎を小僧呼ばわりした元第一高等学校教授の内藤丈吉 - 神保町系オタオタ日記」や「与謝野寛の親友だったパリ在住の変人内藤丈吉 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したようにフランス留学中に女にうつつを抜かすという羨ましい、じゃなかった、困った先生で結局日本には戻ってこなかったらしい。『第一高等学校一覧』では、大正3年までは外国留学中の教授として名前があるが、4年以降名前はない*1。内藤は、明治39年7月東京帝国大学理科大学数学科卒。当時数学第2講座の教授は、藤澤親雄の父藤澤利喜太郎であった。内藤の親友与謝野寛が内藤を「藤澤博士の高弟」と呼んだのは、事実だったと思われる。また、辻著によると、内藤と同じ明治43年に英仏独に派遣された七高教授菱田唯蔵は帰国後九州帝国大学工科大学教授になっているので、内藤も帝大教授の席が用意されていたかもしれない。何とももったいないことであった。
 以前「グーグルブックス」で「内藤丈吉」を検索したときは、拙ブログしかヒットしなかったが、今検索すると多数の文献がヒットする。これによると、『方忌みと方違え:平安時代の方角禁忌に関する研究』(岩波書店、平成元年1月)の著者ベルナール・フランクは、来日前に内藤から日本語を学んでいたことがわかる。更に、中山正子『ハイカラに、九十二歳:写真家中山岩太と生きて』(河出書房新社、昭和62年9月)にも登場する。

 うちの庭の一角に二間の西洋館を建てて、明治女学校の数学の先生の内藤丈吉という人が住んでいて、大姉さんはよく数学を習いにきた。(略)
 この内藤さんがフランスへ行くことになって、この西洋館も調度品も「まあちゃんにあげる」と言って、ほんの身のまわりのものだけを持って渡仏してしまわれた。

 正子は、義姉が明治女学校の数学の先生だった関係で、義母と共に同校の所有地に立つ家に住んでいた。内藤は、明治女学校の先生でもあったことがわかる。正子は岩太と結婚後の大正15年に渡仏しているが、前記自伝にはフランスで内藤と再会したとは書かれていない。出会う機会がなかったのか、気になるところである。このようにとてもユニークな人生を送った内藤なので、誰かにフランス側の史料を調べてもらい、内藤のその後をまとめてほしいものである。
追記:中山著151頁に記載があった。

 まずボナパルトに「宝の山」という日本食料品を売っている店の内藤丈吉さんを尋ねた。かつて私の家の庭に西洋館を建てて住んでいたが、フランスへ行くためにその部屋を私にくださった人。十何年ぶりかの再会だ。少しも変わっておられなかった。この人はすごい潔癖屋さんで病的な人だったが、フランスで日本語学校の教師となり、そこの生徒のフランス人と結婚して二人の子供がある。(略)

*1:追記:大正4年8月10日付け官報の「叙任及辞令」欄に「依願免本官(八月九日内閣)」とある。