神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正11年関西大学大学部経済科を卒業した吉川太三郎のその後ーー関西大学博物館で大学昇格100年記念展を開催中ーー


 1922(大正11)年6月5日専門学校であった関西大学は、大学令に基づく大学として認可された。今年が大学昇格100周年ということで、関西大学博物館で記念展示会「真理の討究 学の実化」を開催中。観覧してきたが、関西大学初の女子学生(聴講生)である北村兼子*1SPレコード『怪貞操』(ニットー・レコード社、昭和2年)の発見に関する展示・映像には驚いた。レコードの音声はホームページ「関西大学 大学昇格100年記念展示会「真理の討究 学の実化」| 関西大学博物館」でも聴ける。また、発見の経緯はネットで読める篠塚義弘「北村兼子のSPレコード『怪貞操』の発見について | CiNii Research」を参照。その他、大学昇格に尽力し、大正11年5月に総理事、翌年に学長になった山岡順太郎関係の展示が日記も含まれていて面白かった。
 この展覧会を見て、数年前に知恩寺の古本まつりで福田屋書店の和本200円均一台で見つけた関西大学の学生の『留学生許可願』を思い出した。早速古本屋の倉庫みたいな我が家から掘り出してきた(^_^;)冒頭の写真がそれで、驚いたことにまさしく大学に昇格した大正11年6月の日付である。宛先も総理事に就任したばかりの山岡宛である。願の内容は、吉川太三郎が自己負担で米国に経済学を学ぶため留学したいので、許可を願うというものである。吉川は明治31年大阪府生まれ、大正11年3月関西大学大学部経済科を卒業し、高等研究科で経済学を専攻中であった。
 父親の吉川竹三郎は、「『人事興信録』データベース」でヒットする。明治元年生まれで、帽体製造業を営む傍ら、淀の水高等女学校(現昇陽中学校・高等学校)を創設し、校主となっている。『日本人物情報大系』39巻(皓星社)で復刻された『第5版財界人物選集』(財界人物選集刊行会、昭和14年6月)では、淀の水女学校校主、此花商業学校(現大阪偕星学園高等学校)校主でもあった。長男太三郎は此花商業学校長となっている。『留学生許可願』が古書市場に出たということは、関西大学に提出されなかったのだろうか。あるいは、2部作成して1部を提出して、手元に残した1部が市場に出たのだろうか。そして、太三郎は米国に留学できたのだろうか、100年も前の話であるが、気になるところである。