善行堂で上記を。300部限定の245番。発行所の五行山荘は兵庫県垂水町に所在。「序」によれば、
本書目は其中心を洋装本発生以後に置き、それ以前の限定的出版物は附録として、判明した丈を末尾に記した。採捨の決定は、広告に拘泥せず、現本に限定記載のあるものを採り、第一書房の用ひる『初版千部』等の記載あるものは採らず、小[ママ]数印行の特製和紙本のみを採ることとした。
とある。「発行に際して」によると編纂に援助したのは、
青木実
天野敬太郎
飯田宏
奥田勝治
禿徹
川崎操
川島祥洋
神村元三郎
木村藤太郎
栗山昴士
呉座太二郎
寿岳文章
高橋友鳳子
中島健蔵
中野新八
宮尾しげお
お馴染みの愛書家が多いようで、青木、天野、禿、川崎、神村、寿岳、宮尾らは古典社の『蒐集家名簿』にも名がある。大竹はどうやって知り合ったのだろうか。
本書はやや入手困難と思われるが、昭和54年6月にプレス・ビブリオマーヌから佐々木桔梗『五行山荘限定版書目細見』として復刻されている。ただし、前記「発行に際して」は除外されている。わしは、天地書房でアクリルケース付きの特製本を入手した。限定印刷数975部のうち157番。帯、佐々木の蔵書票、「誤字・誤記の訂正其他」、「プレス・ビブリオマーヌ既刊並に刊行予定限定版書目」、「西洋骨董&珈琲の店ラパン・アジルの絵葉書」付き。目次は、
第1部
断片的な覚え書 広岡利一
昭和12年5月 300部私家版
五行山荘現代日本限定版書目 大竹健二
第2部
限定版書目細見及び追補 佐々木桔梗
広岡の文章によると、大竹は大正5年生れ、昭和18年夏数え28歳で没。父は数学の先生で、阪大の前身の学校で教授をしていた大竹太郎だという。また、第1部「五行山荘現代日本限定版書目」の奥付の前頁の余白を利用して、「5月21日付、広岡利一氏からの再追加メモ」が赤字で記載されている。それには、
五行山荘大竹健二氏の父・太郎氏は三高→京大→ドイツ留学、帰国後若くして工学博士となり京大教授。阪大の前身の学校も兼務されたが49才の若さで没し(略)
とある。大竹太郎の経歴を調べてみると、『日本人名大事典』第1巻(平凡社)に記載があった。そこから要約すると、
大竹太郎(1881-1929)
明治ー昭和時代の工学者、工学博士
明治14年4月14日 東京市深川区佐賀町生
39年 京都帝国大学理工科卒業
41年 文部省海外留学生として電気工学研究のため独英米三国に留学を命じられる。
44年7月 帰朝
同年8月 九州帝国大学工科大学教授
大正元年10月 工学博士
5年10月 明治専門学校講師に嘱託
13年 京都帝国大学教授に再任し、高等官一等に叙せられる。
昭和4年5月14日 没、年49
ネットで読める沢井実「戦間期の大阪高等工業学校・大阪工業大学・大阪帝国大学工学部」の表7「大阪高等工業学校教員の在籍期間(1913〜28年度在籍者)」には、太郎は電気科に1919-1928在籍、嘱託・講師、所属・身分は京都帝国大学教授とされているので、「阪大の前身の学校で教授」は誤りであろう。
『現代日本限定版書目』が刊行された昭和12年の大分前に父太郎は亡くなっているが、京大教授だった父の関係で大竹と知り合った愛書家も多いのだろう。大竹は広岡によると、「人見知りがひどく自分に就いての個人的な話なども最後まで語ろうとしなかった」という。独身のまま生涯を閉じたが、『現代日本限定版書目』を世に残した。