神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

荻原井泉水が見たバーナード・リーチのエッチング教室

荻原井泉水の日記『井泉水日記 青春篇』(筑摩書房)、やはり恐るべき日記であった。バーナード・リーチが出てくる。

(明治四二年)
十月五日
朝二時間ノ聴講ヲ終ヘテ上野桜木町バーナード・リーチ氏ノ寓居ヲ訪フ。番地ハ知ラヌガ多分此ノ辺ト思フテ入ツタ横町ノトアル家ニ Exibition of Etching and Drawing ト云フ文字ガヂキ目ニ付ク。門ヲ入ルトスグ画室デ誰モ人気ガナイ。壁ノ四周ニエッチングト水画ガ四五十枚掲ゲテアル。ガラス張リノ天上ノカーテンヲ引イテアルノデ、雨ノシト/\ト降ル今日ハ戸外ヨリモ此ノ画室ノ方ガ明ルイヤウナ感ジガスル。針デ出スエッチングノ細カイ線デ家並ト浪トヲ画イタヴェニスノ海岸ナドハ此ノ日記ヲ書ク時モ目ノ前ニアル気ガスル。ソレト帰ル時ニリーチ氏ガ見エテ、「日曜ノヨル六時、コヽデエッチングノハナシヲシマス、アナタ、クル、スキ、ドーゾ」トイフタ言葉、氏ノ風采ハ一高*1ノクラーク先生ニ髣髴トシテオツタ。

鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術』(ミネルヴァ書房、平成18年3月)によると、リーチはこの年の4月に横浜に到着し、9月頃上野桜木町40番地に家を建て住んでいた。そして、エッチング教室の生徒募集の新聞広告を出して、三日間に渡りエッチングの製作実演を行い、柳宗悦、児島喜久雄、里見とん、武者小路実篤志賀直哉など翌年に『白樺』を興す若者が集まったという。『柳宗悦全集』第22巻下(筑摩書房、平成4年5月)の年譜によると、リーチ宅に集まったのは明治42年9月の雨の一夜とされる。
井泉水がエッチング教室について知ったのが、口コミか新聞広告かは不明。また、その後も教室へ通ったかも不明だが、おそらくリーチの研究者も知らないエッチング教室に関する描写だろう。
(参考)「帝国図書館と美少年の怪しい関係」、「明治34年荻原井泉水の家に出現した不思議な書棚」、「日本喫茶店史の重要史料『井泉水日記青春篇』(筑摩書房)」、「帝国図書館の癪に障る下足番

*1:井泉水は、明治38年6月第一高等学校卒業、同年9月東京帝国大学文学部言語学科入学、41年6月同大学卒業、同年9月同大学大学院入学。