神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日本喫茶店史の重要史料『井泉水日記青春篇』(筑摩書房)

グーグルブックスで「帝国図書館 満員」を検索して見つけた『井泉水日記青春篇』上下巻(筑摩書房、平成15年11・12月)。まだ上巻しか読んでいないが、久しぶりにゾクゾクするような日記だった。次のような点が色々使えそうな日記である。
・話には聞いていた戦前のインテリ青年の美少年志向が赤裸々に記録されている。
・個人の書棚や本箱に関する記述がある。これについては、書物蔵氏が『文献継承』(金沢文圃閣)で本日記も使って日本の近代本棚史を書くらしい。
・書店で雑誌の新刊を買っているので、発売日(又はそれに近い日)が確認できる。
明治34年9月数え18歳で第一高等学校に入る前から、新橋駅前のコーヒー店や銀座の竹川ビアホールなどに出入りしていたが、一高入学後頻繁にコーヒー店やミルクホールに出入りし、店名や飲食物について記載している。女給を置いた本格的なカフェー登場以前の明治30年代の喫茶店については、あまり記録がないと思われるので、貴重な史料である。斎藤光先生や林哲夫氏も時間があれば読んでみてほしい。幾つか引用しておこう。

(明治三五年)一〇月二二日 水 晴
(略)七時半遂ニ門ヲ出デ本郷カフヱーニ到リ、ビステキ、紅茶、コヒー、ケーキ二三ヲ食ヒテ八時余カヘレリ。(略)

やあ、日本で初めてカフェーを名乗った*1本郷カフェーが出てきましたね。寺田寅彦もここを使った*2が、寺田と同時期に井泉水も使っていたことになる。もう一つ別のカフェーが出てきたのにはたまげた。

(明治三五年)一〇月二四日 金 曇
(略)寮ヲ出ヅ。新設新井コヒー店ニ到リ、カフェートヲムレツケーキトヲ食フ。ヲムレツケーキナルモノヽ獰猛ナルニハ驚キタリ。(略)
一一月一七日 月 晴
(略)新井カフヱーニヨリ、チョコレートニ菓子ナド食ヒテカヘル。(略)

正式名称が「新井コヒー店」か「新井カフヱー」かはっきりしないが、本郷カフェーと同時期にカフェーを名乗っている店があったとすれば驚くべき事実だ。本郷カフェーを真似したものか、はたまた本郷カフェーより先行してカフェーを名乗っていたか。
もう一つ。

(明治三五年)一一月一日 土 雨
(略)四時半ヨリ寮ヲ出デ淀見軒ヲ訪フ。今夜ハ該店ガ開店一周年ノ祝タル開業式ナリトテ、内ニ菊花ナド飾付ケ景気ヲ添ヘタリ。ビステキ、タルガキ、コヒー、ケーキナド食ヒコゝヲ出ヅ。景品ヲクレタリ。

淀見軒は、林氏の『喫茶店の時代』(編集工房ノア、平成14年2月)に明治34年相馬愛蔵が東大前にコーヒー店を計画した時、青木堂が既に存在した上に、淀見軒が出店したため、代わりにパン屋を開店したとして出てくるミルクホール。これにより、確かに34年創業と確認できる。
井泉水が最もよく利用したのが長仙堂*3で、次に梅月。その他、新規開店の「戸上コヒー店」(明治34年10月23日)、同じく新規開店の「コヒー店ヲーアシス」(同年12月7日)、「パラダイス」(同日)、青木堂(35年2月4日)、店名と思われるが「obst(ヲブスト)」(同年6月2日など)、「セコンドパラダイス」(同年11月18日)も出てくる。『第二回東京市統計年表』(東京市役所庶務課、明治37年10月)によると、35年12月31日現在の本郷区内の「喫茶店」は2軒のみ。井泉水が行った本郷の一高周辺のコーヒー店がすべて本郷区内とは限らないが、どうも斎藤先生が論文「ジャンル「カフェー」の成立と普及(1)」『京都精華大学研究紀要』39号で推測していたように同年表の「喫茶店」は遊楽地での茶屋・茶店的なものに限定されていたことがうかがわれる。
なお、井泉水は日記の35年11月11日の条によれば、岡野知十の『半面』2巻1号に「コーヒー店」を寄稿したり、同月29日の条によれば、寮の部屋の『漫録』に「近キコヒー店ノ類十余種ノ評判記」を書いているようだ。
戦前の喫茶店・カフェーを調べる場合、林氏の前掲書の店名索引を参考にさせていただくが、網羅的なものではない。誰か『日本喫茶店大事典』を作らないかね。

*1:カフェー発祥の地としての本郷(その2)」参照

*2:寺田寅彦と謎の本郷カフエー」参照。

*3:コーヒーの他牛乳を飲んだり、新聞・雑誌を読んだりしているのでミルクホールか。