神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷崎潤一郎・坪内逍遥を騙る倉田啓明


細江光『谷崎潤一郎 深層のレトリック』によると、『東京日日新聞』(大正6年12月13日、同月17日)に、倉田啓明なる悪文士が、8月15日、坪内逍遥の紹介状を偽造して『黒潮』に「結搏葛城の神」を売りつけようとしたり、谷崎潤一郎の名も騙っていたことが記されているという。逍遥の日記*1によれば、この倉田の悪事は、報道されるより前に逍遥の耳に届いていた。

大正6年11月7日 午前 黒潮主任中根某来、倉田啓明が予の推薦状を偽造して新園[ママ]芸の結城某へ小説を持込みし事を聞く


    11月13日 中外新報記者文学士佐藤荘一郎来、倉田啓明偽筆の推薦状の件、「葛城の神」 


11月13日の時点で『中外新報』の記者にかぎつけられているのであれば、12月13日の『東京日日』より前に報道されている可能性が高いが、調べていない。


倉田については、わりと関心を持っている人が多いみたいだ。
櫻井書店の創業者櫻井均について、子息の櫻井毅が書いた『出版の意気地−櫻井均と櫻井書店の昭和』(西田書店、2005年8月)によると、均が大正期に春江堂に勤めていた時の話として、

また、春石*2の家の食客で春石の代作などもしていた倉田啓明が「仏陀とその弟子」を書くというので、資料を購入して渡したり、特注の原稿用紙を用意したりしてそれを自分の最初の出版物にしようと夢見たりしていた。そのときは自分で出すつもりだったので、春江堂の主人に店を辞めたいと申し出たのだが、「儲けはやるからうちで出せ、辞めることはないじゃないか」と説得されて、結局引っ込めてしまった。倉田も完成できないままに終わった。


均は、大正12年9月には春江堂を辞め、その後昭和15年3月に櫻井書店を設立。
倉田のことには最期まで関心を持っていたようで、

ほかにもしあるとすれば倉田啓明の著作や資料を風呂敷包みで二つ父はもっていましたから、何か書きたいという関心があったのかもしれませんが、父はその資料を使って誰かに書いてもらいたかったんじゃないかと私は想像しているんです。


という。


また、均は、松本克平『私の古本大学』(青英舎、昭和56年2月)の「小説家倉田啓明」・「倉田啓明その後」でS氏として登場している。


大貫伸樹「戦時中でも気概のある美しい装丁を押通した櫻井書店本」(『本の手帳』第2号、2007年2月)によれば、均は『奈落の作者』(文治堂書店、昭和53年)で倉田のことを書いている*3そうである。倉田については、ネタが入れば、また紹介する予定。


追記:櫻井均『奈落の作者』に倉田の事が書かれていることは、松本八郎加能作次郎 三冊の遺著』(スムース文庫)にも記されていた。

*1:『未刊・逍遥資料集』第1巻

*2:北島春石

*3:初出は『素面』32号、昭和44年11月と思われる。