神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大空詩人永井叔とその時代

 川西政明『新・日本文壇史第三巻 昭和文壇の形成』に、永井叔と倉田啓明が出てくる。

京都へ帰った(長谷川)泰子は叔の紹介で表現座へ加わった。表現座は京都帝国大学助教授でドイツ文学専攻の成瀬無極が主宰し、「死刑執行人の死」で知られる異端作家の倉田啓明が中心人物だった素人の新劇団だった。ここで有島武郎の「死と其前後」を上演した。その表現座の稽古場が倉田の家にあり、その薄暗い稽古場の椅子に坐って中原中也が練習風景を見ていた。そこで話をしたのが、中也と泰子の最初の出会いだった。

 上記は、関東大震災後のこととされている。永井の『大空詩人 自叙伝・青春篇』(同成社、昭和45年6月)で、上記のほか、大正末期に永井の周辺にいた人物を見てみると、

房州の一角に“臨時弟子”大橋悠歩君と共に遠藤順治(虚籟)氏(後、館山市重要文化財に指定された国宝的綴錦《織》の名匠−−“巡礼の跡”*1の著者。兄君如風氏と予言者宮崎虎之助の門をたたいたこともあった。一九六三年十二月二十六日秋野夫人のみまもりのうちに、惜しくも天に召された。氏の名作の二つ《観音像》は今尚国連本部及び浅草寺の両壁を飾っている筈である。)を訪ねて千葉、北条、千倉を漂托した。

 遠藤順治については2008年10月21日に言及した人物だが、「遠藤虚籟」でググると幾つもヒットするので、経歴はそれを見てもらおう。大橋悠歩については、同書に「本名は力。現在、宇都宮市河原町にあって鉄工場を経営」とある。また、同書の別の箇所で、木下乙市については、「金子白夢牧師の御近親で当時中外商業新報記者、生長の家の渉外部長。スノーデン哲学等々の著者、日本貿易振興会顧問、現世界友の会々長」とある。
 大橋については2月4日、木下については3月31日に言及したが、永井とともに東京国際倶楽部に関係した人物である。これらのことから、同倶楽部に関係した箱木一郎は、遠藤の知人である箱木と同一人物と見てよいのだろう。なお、箱木については、「http://www.ne.jp/asahi/boxtree/hakogi/profile2.html」で詳しい経歴が見られる。

(参考)永井は、ドン・ザッキーとも交流があり、青木正美『古本探偵追跡簿』(及び『ある「詩人古本屋」伝─−風雲児ドン・ザッキーを探せ』)に大正14年11月3日築地小劇場で開催の「世界詩人第一回講演会記念撮影」の写真が掲載され、ドン・ザッキー、村山知義秋田雨雀中西悟堂、遠地輝武らと共に、永井及び同夫人の名前があがっている。同日の秋田の日記には、「十二時から築地小劇場へゆく。「世界詩人」の会が一時過ぎからはじまった。おもしろい会だった。「否定的肯定」という題で感想をのべた。ダダイズムニヒリズムについて。閉会後飯森、石川暁星二君と竹葉で夕食」とある。
 また、木下の近親という金子白夢牧師というのは、馬場伸彦『周縁のモダニズム モダン都市名古屋のコラージュ』(人間社、平成3年11月)によると、
・牧師として名古屋に赴任し、詩人の佐藤一英と宗教運動を通じての交友関係があった。白夢の長男金子玄は、筆名を折戸彫夫といい、詩誌『ウルトラ』の詩人で、佐藤と鳥羽茂の共同編集による『詩学』の同人でもあった*2内堀弘『ボン書店の幻』)。
明治6年千葉県生。明治45年愛知教会に着任。小学校教師の有志らを結集して「新生会」を組織し、東西の思想家、文筆家を呼んで講演会を開いた。また、市川房枝師範学校時代に愛知教会で洗礼を受け、白夢の教えを受けた(『郷土宗教人展』(昭和36年)の目録)。
・名古屋へ来る前は、神戸の教会に籍を置き、神戸女学院で教鞭をとっていた。桜菊学園という花嫁学校で社会学のような講義をしていた(白夢の三男と結婚した平河和子の話)。
 更に『日本キリスト教歴史大事典』を見ると、金子は本名金子卯吉、明治6年2月4日千葉県生。組合教会神戸教会伝道師を経て、41年福井教会牧師、45年愛知教会牧師。昭和16年8月同教会を引退、25年4月20日没。

*1:正しくは、『順霊の跡』(同文社、昭和12年3月)。

*2:ただし、『詩学』には執筆していないので、内堀氏が同人とした典拠が不明。