神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

南方科学研究所設立に奔走する羽田亨京都帝国大学総長と民族研究所の岡正雄


 大佛次郎の戦時中の日記*1に戦後奈良教育大学教授となる地理学者林宏とジャカルタの南方文化研究所が出てくることは、「戦時下ジャカルタで南方文化研究所を開設する地理学者林宏ー大佛次郎『南方ノート』からー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。一部の地理学者、民俗学者、更には同大学の先生にも届いたようでアップした甲斐があった。そこに追記した昭和17年京都帝国大学文学部に設置された南方文化研究会の顧問に羽田亨の名があるので、「清野謙次教授による窃盗事件の報に接した浜田耕作京都帝大総長の心情 - 神保町系オタオタ日記」などでも利用した京都大学大学文書館編『羽田亨日記』(京都大学大学文書館、平成31年3月)を調べてみた。そうすると、「南方研究会」、「南方研究所」や「南方科学研究所」に関する記述があった。一部を引用しておこう。

(昭和十七年)
三月十一日
(略)
三時ヨリ海軍調査課長高木大佐ト総長室ニ会談各学部長列席、各学部ニ成立モシクハ成立シツヽアル南方研究会トノ間ニ連絡ヲ話合ヒ夕景ヨリ鶴屋ニ会食
(略)
(昭和十八年)
十一月二十二日
豊田氏宿所鉄道ホテルニ訪ヒ来ル打合ノ後同伴シテ海軍省ヲ訪ヒ軍務局第二課長矢牧大佐*2ト会談木材工学研究所設置及ビ南方研究所設置ニツキ後援ヲ依頼快諾ヲ得岡局長*3ニモ挨拶。文部省ニテ永井局長*4ニ豊田氏ト共ニ海軍省ノ経過ヲ語リ豊田氏ハ更ニ軍需省ニ行ク(略)近藤局長清水科学局長トモ面談。(略)
(昭和十九年)
一月十三日
(略)
夜海軍々務局課長矢牧中[ママ]佐はじめ課員諸氏文部省永井局長西嵜課長芝沼課長園部マカッサル研究所長等を志ほ原に招く
先般来此等諸氏に支援を求めたる南方科学研究所設置予算通過し海軍側には別に演習林についても世話になりたるにつき謝意を表する為なり豊田久二氏及び福原河田、外に当日上京の佐藤演習林長も出席
(略)
六月二十九日 木
評議会部長会の後官舎にて南方研究会を結成各学部の同会を連接して本会を設置の事につき懇談各学部とも異議なく諒承す学部会長を理事に依嘱のことゝし会後夕食を共にして更に懇談
十月十三日
(略)
文部省ニ行キ永井局長ト会談、南方科学研究所案ニツキ話合フ、民族協会中心ニ共栄圏民族学関係学者ヲ京都ニ招キ学界ヨリ東亜圏結合ノ勢ヲ進メテハ如何トノ提案アリ此事丘氏軍部トノ間ニアル程度話ヲ進メツヽアルガ如シ考ヘ置クベキ旨ヲ答ヘ置ケリ(略)

 昭和17年3月11日の条の「高木大佐」は高木惣吉で、『高木惣吉 日記と情報』(みすず書房、平成12年7月)が存在する。しかし、前日及び同日の条には、「[切り取りのため不明]」とある。何が書かれていたのだろうか。
 京都帝国大学総長だった羽田の日記により、海軍や文部省の協力を得て南方科学研究所の創立に動いたこと、各学部に設置されていた南方に関する研究会を南方研究会に統合したことが分かる。ただし、ジャカルタの南方文化研究所との関係は不明である。
 東京で羽田に協力した豊田久二は、ネットで読める伊藤隆鈴木裕子「南方・立地自然科学研究所の設立と廃止」に東京帝国大学内で南方医学研究会と南方資源研究会が合併して昭和17年7月に設立された南方科学研究会(後に南方自然科学研究所に発展)の幹事として登場する豊田と同一人物と思われる。『昭和人名辞典2巻』(日本図書センター、平成9年11月)に載る同名の人物の経歴を挙げておく。

豊田久二 青年文化協会常務理事
明治30年8月31日 東京府久樹の二男として石川県で誕生
大正13年 東大政治科卒
同学嘱託を経て千葉医大学生主事学生課長

 この豊田は東大卒ではあるが、軍部や文部省に顔が利く人物であったかどうか。同定は保留しておこう。いずれにしても、京大総長なら他にいくらでも伝手があったはずで不思議な人選である。
 昭和19年10月13日の条に出てくる「丘氏」は、正しくは昭和18年1月に創立された民族研究所の総務部長だった岡正雄だろう。『岡正雄年譜』(岡千曲ほか)によると、昭和19年1月と3月には調査連絡のため満洲、北支、蒙疆に出張している。羽田の日記によると、岡はこの年に軍部と何か画策していたようだ。
 羽田が奔走した南方科学研究所のその後はどうなったか。『羽田亨日記』の解説編(西山伸)によると、研究所の設置が盛り込まれた昭和19年度予算案は昭和18年12月10日に閣議決定されたが、設置されないまま敗戦となった。同時期に海軍の支援を得て設立準備を進めていた木材研究所は昭和19年5月に設置されたという。
 南方科学研究所は実現しないまま、敗戦を迎えた。この時期の日記にしばしばあることだが、羽田の日記には敗戦前後の記載がなく、後日まとめて追記されている。

(昭和二十年)
八月二十五日
(略)十五日正午折柄来合セタル戸田正三荒勝文策ノ両氏ト共ニラヂオノ前ニ立チ大詔ヲ謹聴ス(略)

 玉音放送を聴く羽田のすぐ横に「興亜民族生活科学研究所の創立者戸田正三と石田英一郎ーー本田靖春『評伝今西錦司』の誤りーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した興亜民族生活科学研究所の戸田がいたことになる。

*1:大佛次郎記念館編『南方ノート・戦後日記』(未知谷、令和5年8月)

*2:海軍省軍務局第二課長兼海軍調査課長の矢牧章

*3:海軍省軍務局長の岡敬純

*4:文部省専門学務局長の永井浩