神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

南木芳太郎と宝船・土鈴蒐集家の東田清三郎(東田琴山人・東田吉児・梅廻家田舎・調亭歌升)


 郷土研究誌『上方』を主宰した南木芳太郎の日記には、度々東田という人物が出てくる。たとえば、『南木芳太郎日記二』(大阪市史料調査会、平成23年12月)を見てみよう。

(昭和十一年)
二月九日
(略)
夕食後に東田君の宝船蒐集展覧を観に行かうと思つてゐると、佐古君*1が来り話し置(ママ)んで七時過ぎとなつたのでやめにする。夕食後東田君へ断りのハガキを書く。(略)
予記
◯午後二時より九*2七時まで、北野綱敷天神社にて東田君の宝船展覧会。
◯午前九時、四天王寺金堂前集合、趣味の考古学会。

( )内は、編者による注。

 この東田、本名を東田清三郎という。『上方』には、本名のほか、東田琴山人*3、東田吉*4の筆名で執筆していたようだ。東田清三郎=東田吉児であることは、尼崎市古書店図研で入手した絵葉書*5の表面に東田清三郎、裏面に東田吉児とあることで同定できる。東田清三郎=東田琴山人は推定である。
 なお、『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)の内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」は、902番昭和12年7月26日付け消印東田清三郎から忍頂寺宛の暑中見舞について、備考で「絵ハガキ(東田吉次「明治時代之大川」)」としている。「吉次」は、「吉児」の誤植と思われる。
 昭和11年に宝船展覧会を開催した東田は、「昭和6年第3回浪華宝船会案内ーー風俗研究会(江馬務)の藤村芝山旧蔵を玉城文庫からゲットーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した昭和6年の第3回浪華宝船会案内には9番目に「東田清三郎」として名前が出ている。南木は、65番である。

 また、東田琴山人名義で『上方』44号(創元社昭和9年8月)に書いた「大阪の情歌」によれば、明治30年代琴山人は梅廻家田舎名義で投書家として活動し、後には調亭歌升と名乗ったという。正体がよく分からないが、西沢爽『日本近代歌謡史上』(桜楓社、平成2年11月)では琴山人について「東京の升連(鶯亭金升一派)に属し、平瀬露香直系の田中芳哉園とは立場を異にしていた」と評している。
 土鈴の蒐集家でもあった。『上方』114号(創元社昭和15年6月)に東田清三郎「上方に於ける神社仏閣授与の土鈴」を寄稿し、口絵には清三郎蒐集の土鈴が載っている。また、翌月の115号には「上方に於ける神社仏閣授与の土鈴(二)」を寄稿するとともに、「大阪玩具座談会」に「土鈴蒐集家」として参加している。おそらく、「『日本人形史』の山田徳兵衛から中山香橘宛年賀状(昭和12年)ーー百鈴会の川崎巨泉と中山香橘ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した百鈴会のメンバーでもあったのだろう*6
 奥村寛純『浪花おもちゃ風土記』(村田書店、昭和62年12月)の「序」を書いた小谷方明は、次のように戦前の大阪の玩具人の一人として清三郎の名を挙げている。

 昭和十七年に有坂編「日本民族玩具協会」、昭和十八年に稲垣編「郷土文化会」でそれぞれ会員名簿が出版されたが、その両編書によると大阪の玩具人は、青山一歩人、岡本三男、梅谷紫翠、佐野三壺、坂本貞子、塩山可圭、瀬川俊峰、西田静波、東田清三郎、本出保次郎、宮地留之、村松百兎庵、森玉申、芳本倉太郎、吉田徹夫、寺方徹、森崎小平、飯田透陽、加藤専三、岸本五兵衛、北村柳汀、山本羊子雄、広岡卯三郎、駅井昌信、小谷方明等がおり、物故会員として、鷲見桃逸、川崎巨泉、続いて大沢鯛六氏等が故人となっている。

 そのほか、「古書あじあ號から後藤捷一編『早苗田:歌集』(昭和13年)をーー後藤捷一、明石染人と南木芳太郎ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した南木や後藤捷一が属した大阪史談会にも所属していた。『大阪史談会報』2巻2号(大阪史談会事務所、昭和6年9月)の「新入会者」に「東田清三郎」の名がある。今でも寸葉さんが出品する趣味人の絵葉書箱に東田作成の物は数枚入っている。そこで見つけた昭和10年と思われる清三郎の年賀状を挙げておく。今後も新たな東田関係の絵葉書に出会えるかもしれない。
追記:『郷玩文化協会会員名簿 昭和十八年』(郷玩文化協会、昭和18年3月)によれば、東田清三郎は明治14年2月18日生

*1:佐古慶三

*2:「九」に編者により原文が抹消されている旨の注

*3:6号,昭和6年6月「滅び行くちやり浄瑠璃」など。

*4:5号,昭和6年5月「玉雲斎貞右」など

*5:「鼠向難波遷都之兆也」と記された和本の『日本紀』の絵なので、子年である昭和11年の年賀状と思われる

*6:東田清三郎編『土の鈴』(大阪ドレー会、昭和12年)を刊行している。