神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和2年『書史』を創刊した書史会の青木平七と南木芳太郎

 
 『書史』第1冊(書史会事務所、昭和2年2月)が出てきた。いつどこで買ったことやら。古本横丁かCosyo Cosyoの和本均一台から掘り出したか。28頁、300部限定の193番。表紙の右上に「大正十四年一月創立/昭和弐年二月二十日発行」とある。1行目は通常印刷納本日が記される所で、発行者の創立年月が記されるのは珍しい。国会デジコレで見られる*1が、目次を挙げておく。

 鹿田文一郎や荒木伊兵衛のような古本屋と南木萍水(南木芳太郎の号)や三宅吉之助のような蒐書家の名が見える。『書物関係雑誌細目集覧二』(日本古書通信社、昭和51年5月)によると昭和2年5月第2冊で廃刊なので、わずか3ヶ月しか続かなかった*2。書史会は、大阪の古書籍業者と古本党が集まって毎月古書を持ち寄り展観し合った会で出品目録も作られたという。この頃の南木の日記は存在しない。あれば書史会についてより詳しく分かったと思われるので、残念。
 また、忍頂寺務が会員なので、内田宗一先生の労作「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年2月)を見てみた。しかし、関係する書簡は無いようだ。ただ、同書の福田安典・尾崎千佳・青田寿美編「忍頂寺務年譜データベース」大正15年8月15日の条に「大阪市の書林倶楽部にて開かれた書史会主催虫干会において洒落本を出展」とある。この時の目録は、斎藤昌三『書物誌展望』(八木書店、昭和30年5月)57・58頁に記載されている。

 『書史』第1冊から同人27人の名簿を挙げておく。古本屋としては、荒木、石川留吉、伊藤一男、高尾彦四郎、豊仲未迷*3、藤堂卓、中村正二郎、中尾熊太郎、松本正治、森谷清松が出ている。編輯兼発行人は大阪市東区淡路町3丁目の青木平七で、発行所の書史会事務所は青木方である。
 青木及び書史会については、「特集肥田晧三坐談」である『藝能懇話』20号(大阪藝能懇話会、平成21年11月)の「青木恒三郎と青木平七」と「書史会のこと」でやや詳しく語られている。これによれば、大正15年7月の「書史会攬要」により第1回の例会は鹿田が催主で「明治大正の筆禍本」の課題で発表されたことが分かる。また、同人は最終的に述べ29名で、例会は昭和2年4月の第24回まで確認できるという*4。なお、肥田の坐談時に「書史会の時代背景年表」(大正11年2月~昭和6年10月)が配付されたようで、どこかに残っているだろうか。
 肥田は、青木について「東区淡路町四丁目に住み、蔵書に「百足屋文庫」と名付けていた*5こと以外、なにもわかりません」としている。しかし、今や国会デジコレの威力により生年及び職業が分かる。『羅紗洋服商名鑑』(中外毛織新聞社、昭和2年9月再版)によれば、明治18年大阪市生まれの毛織物商で、読書を好んだ*6。また、国会デジコレではヒットしないが、南木主宰の『上方』142号(上方郷土研究会、昭和17年10月)に10月11日逝去との訃報が載っている。享年58ということになる。
 ところで、『大阪に関する書籍展覧会目録』(書史会事務所*7大正14年4月)の「同人語」に「今『書史』第一号を発行し、『大阪に関する書籍展覧会』の開催を見たことは同人の最も欣快とする処である」とある。斎藤もこの記述によったのか、前記『書物誌展望』で「大正十四年四月には、大阪から同好者の集りで『書史』が出た筈だが、どんな形式で発行された今手許に資料が見当らない」としつつ、田中豊の示教により『書史』の発行は第1号(昭和2年2月20日)、第2号(同年5月20日)としている。一方、『書史』第2冊の三宅吉之助「永日小言」には「早くから書史会誌が生れるのを望みながらその折は実現せずに、もつと時経てと思つてたのに近頃創刊号が世に出た」とある。斎藤が幻の大正14年発行の『書史』を持っていたのか、そもそも同年発行の『書史』は存在しないのか、謎が残るところである。
追記:『大阪に関する書籍展覧会目録』の内題の下に「(書史第一号)」とある。大正14年の『書史』は展覧会目録として、昭和2年の『書史』は書史会誌としてそれぞれ創刊されたことになる。ぬりえ屋さん(@nurieya2016)の御教示により判明。ありがとうございます。

*1:国会図書館所蔵本には「沓掛蔵記」印が押されている。神奈川県立図書館の整理課長・資料課長や金沢文庫長を歴任した沓掛伊佐吉だろうか。

*2:『書史』第1冊の「編輯後記」には「東京の『集古』のやうなわけには行かないが意気込みだけは大したものさ」とあるものの、長続きしなかったことになる。署名は「異屁江」とあるので、荒木伊兵衛と思われる。荒木は、昭和2年4月自身で『古本屋』を創刊。「編輯後記」は「異屁江」と「未迷」が書いている。内田魯庵宮武外骨(「廃姓外骨」名義)、斎藤昌三など著名人のほか、書史会同人の高梨光司、豊仲未迷、三宅吉之助(「宇津保文庫主人」名義)も寄稿している。『古本屋』の創刊が『書史』廃刊の一因になったのかもしれない。

*3:『グロテクス』昭和4年5月号(文藝市場社)の芦湖山人「日本近代畸人録ー箱根趣味塚建立由来ー」に「豊中[ママ]鍬之助氏」として立項されている。「未鳴又略して未迷といふ。これは少雨荘の前号を継いだものであらう」という。なお、山口昌男内田魯庵山脈(下):〈失われた日本人〉発掘』(岩波書店、平成22年12月)には豊中鍬之助、豊中(仲)未鳴として登場するが、人名索引では名寄せされていない。

*4:ただし、斎藤昌三『書物誌展望』58頁には、「昭和三年八月の展観目録は会名が古書趣味の会とあり、会員も三十五名となつてゐる」とある。

*5:青木編『教育と御伽の参考古書目録』(百足屋文庫、大正14年5月)が刊行されている。

*6:住所は、『書史』第1冊の奥付と異なり、淡路町4丁目である。なお、『日本商工信用録(分冊大阪府):大正十三年』(日本商工社、大正14年2月)には、淡路町3丁目の羅紗・サテン及加工品洋服業として載っている。

*7:所在地は、大阪市南区の鹿田文一郎方である。