神保町系オタオタ日記

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中支派遣軍に応召中の池田彌三郎から岡山の郷土史家花田一重宛の絵葉書


 中支派遣軍三枝部隊片山隊で応召中の池田彌三郎から岡山の六条院町の花田一重宛軍事郵便。これも、「戦時下におけるアチックミューゼアムの宮本常一と岡山の郷土史家花田一重ーー須藤功『宮本常一』(ミネルヴァ書房)に寄せてーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した@pieinthesky氏から入手した花田宛書簡群の一つである。岡山の郷土史家花田の経歴を『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社、平成6年10月)から要約しておこう。

花田一重 はなだかずえ 明治22~昭和46
教育者・郷土史家。浅口郡六条院中村生。明治42年岡山県師範学校卒業。同年鴨方東尋常高等小学校訓導となり、以後岡山県戦捷紀念図書館司書*1、勝山高等女学校、観生高等女学校、玉島高等女学校、精華高等女学校(呉市)、六条院中学校などで教鞭を取り、昭和27年玉島高等学校の司書教諭となる。若くして郷土史の研究に取り組み、大正10年『浅口郡誌』の編纂に加わり、以後『岡山県史』や浅口郡内の町村史の編纂に関係。

 葉書を受け取った時点では、故郷の六条院中学校の教員だったと思われる。一方、応召中の池田の動静は、井口樹生著・藤原茂樹編『新編池田彌三郎の学問とその後』(慶應義塾大学文学部国文学研究室、平成24年10月)の年譜によれば、

昭和16年7月 世田谷の東部第12部隊池上隊に入隊。満州第379部隊第3大隊段列笹原隊第3班に配属
同年9月 駐留態勢となり、ハルピン郊外4里の孫家に移駐
昭和17年1月 陸軍一等兵となる。7日叔父池田大伍没
同年7月 陸軍上等兵となる。
昭和18年1月 陸軍兵長となる。
昭和19年3月 馬に蹴られて左腎臓破裂。入院
同年4月 陸軍伍長に任官する。入院中中隊はチチハルに移駐し、あとを追う。
同年6月 チチハルにて再編成。第9中隊に所属して南方に向かう。
同年8月 宮古島上陸

 池田は当初笹原隊に所属していたが、葉書の発信時には片山隊に所属していたことになる。葉書の中央部に「224」と書いてあるように見えるので、2月24日とすると、昭和17年2月、18年2月、19年2月のいずれかに発信されたと推定できる。この辺り、池田の経歴に詳しい人なら解明できるだろうか。
 肝心の文面だが、3分の1は消えている上、残りの部分もほとんど判読できない。冒頭に「先日は□なつかしき」とあるほか、「存じます。私もお蔭様」「の賜と感謝」「吾々も」「銃後」などが断片的に判読できるだけである。ただ、以前から池田と花田に交流があったことは分かる。池田からの葉書はこれだけで、他にもあったかもしれない書簡はどうなったことやら。なお、裏面は曙堂《張家口》という絵である。よくある絵葉書のようで、ヤフオクに多数出品されている。