先日大阪歴史博物館の特集展示「ーわたしが難波橋のライオン像をつくりました!!ーなにわの彫刻家・天岡均一没後100年記念展」(7月8日まで)を観覧。《金剛力士像》(明治44年)のキャプションに注目した。
(略)均一の俳友で尼崎市立図書館員であった永尾宋斤(利三郎)に拠ると、晩年に至るまで仏像の調査研究や鑑定に取り組んでいたようである。
そんな図書館員がいたのかと調べると、羽間美智子『宋斤:永尾利三郎と尼崎』(神戸新聞総合出版センター、令和3年6月)という本があったので借りてきた。大正8年9月から尼崎市立図書館開設の事務を担当、大正15年1月俳句結社早春社を興し、同年2月俳誌『早春』を創刊。一方、『尼崎志』全3篇(尼崎市、昭和5~9年*1)を一人で編纂した。戦前から図書館員や教員が郷土史家でもあったことが多く、永尾もその一例だったことになる。近年、特に教員にその余力が無くなり問題になっているところである。
尼崎市立図書館と俳人の組合せから、「俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記」で紹介した昭和9年4月から12年2月まで同館の館長事務取扱だった俳人多田莎平が連想される。羽間著11頁に載る初期の『早春』に集まった俳人の中に多田の名前があった。多田は永尾とのつながりから館長事務取扱になったのかもしれない。
『図書館雑誌』51号(日本図書館協会、大正11年12月)で永尾が協会に入会したことが分かる。紹介者は神戸市立図書館長の伊達友俊である。同誌に載る会員氏名録(大正11年11月1日現在)を見ると、尼崎市立図書館で入会しているのは永尾だけである*2。『兵庫県学事関係職員録』(兵庫県教育会、大正11年7月)によると、同館には荒川宗太郎館長事務取扱以下、司書事務取扱1名、事務員4名、事務見習2名がいた。永尾は、事務員の中では筆頭である。羽間著24頁に荒川が尼崎市視学で、尼崎市立実科高等女学校や尼崎市立夜学校の校長事務取扱も兼職していたのでおそらく図書館の実質的な運営は永尾にまかされていただろうとしていて、これは日本図書館協会への入会者の状況を見ても確認できた。